[18禁] 逆リョナ小説サイト  ~美しき女性たちの狂気~
 愛華は足を子猫に乗せたまま佇立していた。
 誠一はようやく身体を起こし、愛華の脚前に座る。われ知らず正座の姿勢になっていた。
「私ねぇ、環境委員なの」
 愛華が無感情に言葉を響かせる。
 突飛な話題の変化に、誠一は戸惑った。彼女の意図がわからず、
「そ、そっか」
 と、当たり障りのない相槌を打つ。
「さっき、蛾、潰して、お父さん嬉しかった?」
「あ……、ああ。もちろん。ありがとう! 助かったよ。虫、苦手で」
 誠一は大げさに喜んで見せる。が、
「鉛筆の時も、あの植物の時も、嬉しかった?」
 次の言葉が、彼を迷わせた。鉛筆は、実際どうでもよかった。彼の頭にあったのは、ステレオスペルマムだ。毎日、丹念に世話してきたのだ。それを思うと、誠一の心は再び締め付けられた。だが、彼女の求める答えがそうでないことは、察するに余りある。先ほどの「嘘」という彼女の言葉も気になる。今、彼女の機嫌を損ねないためには、
「ああ。もちろん」
 是非も無かった。
 それが功を奏したのか、愛華の表情に僅かずつだが笑みが戻ってきた。瞳は光を帯び、口元が緩み、安堵したように息を吐く。
「環境委員はね、要らないものを全部片付けるの」
「…………」
 誠一の心に、にわかに不安が過る。
「今日も、虫潰して、あの子助けた」
 それは誠一の知るところだった。再会の場面としては、あまりに印象深かった。
「学校でも、みんなが喜んでくれるんだよ」
「む、虫が苦手って子、多いだろうから……」
「さっきは、蛾を潰したし、鉛筆も、植物も潰した」
「そうだな。……う、嬉しかったよ」
「うん。お父さん、どれも同じ顔してた。どの時も、同じ……。でも――」
 と、愛華の目がひときわ大きく見開かれた。
 笑顔は全く崩していない。が、その視線はあまりに鋭かった。誠一は、彼女の射抜くような瞳に圧倒される。しかしそれは同時に、全てをのみ込んでしまうような魅力をも備えており、誠一は目を逸らすどころか、まるで吸い込まれるように、彼女の瞳に釘付けにされてしまっていた。

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 誠一は震え、立つことができなかった。腰が抜けていた、とも言える。
 喪失感が、しばし彼をのみこんでいた。やがて、はね返るように、悲痛な感情がやにわに押し寄せてくる。彼は堪えるのに必死だった。愛華を止められなかった自分を責めた。大切に育ててきたのだ。それが、ほんの一瞬で……
「嬉しい?」
 幾度も聞いた愛華の素っ頓狂な言葉が、誠一の傷口に塩を塗る。彼は力なく「……嬉しいわけないだろ」とだけ返し、肩を落とす。しかし彼女は、誠一がその悲愴感に身を委ねていることすら許してはくれなかった。なぜなら、聞き覚えのある聞き慣れない声が彼の耳に入り、
「――っ!」
 ふと頭を上げた時、
「う、嘘だろ?……やめ、愛華――!」
 目に入った光景が、彼には信じられなかったから。
 声の主は、子猫だった。小さなからだのうえに、愛華の足が乗っている。
「どうして、嘘つくの?」
 誠一は弾かれたように駆け出す。が、震える足がもつれ、その場に転倒してしまう。
「愛華、やめろ!」
 誠一の目に涙が溜まる。愛華は足で子猫を捕らえたまま、
「蛾の時も、この植物の時も――」
 夢中で這って自分へと向かってくる誠一を下目に見ながら、
「お父さん、同じ顔してるのに……」
 子猫の腹部に、さらにじわりと体重をかけた。今の誠一に、愛華の言葉は届かない。ただ、一刻も早く子猫を解放することだけを考え、誠一は彼女の足元へと急いだ。
 だが、
「お父さんも、力づく?」
 愛華のその言葉が、誠一の動きを制した。彼女の足に掛けかけていた誠一の手が止まる。見れば、彼女の足の力がわずかに緩んでいるのがわかる。
「コレを、私から奪るの?」
 子猫は依然として愛華の足に捕らえられたままではあったが、先ほどまで響かせていた痛々しい呻きのような声は止んでいる。誠一は、
「ちゃ、ちゃんと聴く! 嘘は言わない! だから、やめてくれ!」
 彼女の行為を阻止しようと、必死でそう懇願した。
 愛華の瞳は、全く感情を湛えていなかった。
 誠一はそんな彼女を見上げながら、いつまでも勃起し続ける己の愚息に困惑していた。

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「嬉しい?」
 唐突な問いかけに、誠一は当惑した。
 単純に、蛾を退治したことに対してだと解してよいものなのか。あるいは――?
 自身の漲った愚息を意識し、不可解な感情に揺れる。まっすぐ見つめる愛華の笑顔の中に、不確定な裏の存在を探してしまう。目が泳ぐ。
 愛華は平然とした口調で、再度、「嬉しい?」と誠一に詰め寄った。彼女の大きな瞳が、誠一の視線を捕らえる。その美しくも妖しい輝きは、黒曜石のもつそれと似ているだろうか。その石は次第に表面を潤ませ、ひとつの感情を形成し、誠一に迫った。呼応するように、愛華の口元が、肩が、微震を始める。彼はその感情を前に、
「え……、あっ、ああ、もちろん」
 慌てて返答した。誠一の声は不自然に上擦っていたが、愛華は気にしていないようだ。満面の笑みを湛え、跳ねるように居間へと向かった。
「っ……、はああぁ」
 誠一は大きな溜息とともに、浴室の前にへたり込み、項垂れた。愛華が傍にいるだけで、足が竦んでしまっていたのだ。まだ膝が笑っている。呼吸がうまくできない。拍動が速い。原因は彼女への勘ぐりからか、慄きからか、疚しい気持ちからか、その全てからか――?
 誠一は頭を上げ、それとなく視線を横に向けた。
 先ほどの粒粉はティッシュに包まれ、今はごみ箱の中だ。
 誠一はその、蛾にとっての墓場を、ただじっと見つめていた。
 と――、
「お父さん」
 無邪気な、それでいてどこか威圧するような、相反する響きを矛盾なく宿した愛華の呼び声が聞こえた。誠一がそちらへ視線を向けると、
 ――愛華?
 彼女は、机の上に置かれた鉛筆を躊躇なく折る。そして、
「あ……な、何――」
「嬉しい?」
 同じ質問で、誠一の言葉を遮った。
 愛華はその身を翻し、窓のほうへと歩を進める。そこにはいくつかの鉢があった。ステレオスペルマム。葉が小さく、光沢がある観葉植物だ。少しずつ大きくなり、これから生長期に入る。彼はそれを楽しみに、毎日欠かさず手入れをしてきたのだ。彼女は再度、誠一の表情を窺った。口元が震え、青ざめている。愛華はその様子を見てから、
「まさか……、愛華? あ!……ああっ! や――」
 葉を手当たり次第にむしり取り、
「やめろ……、ああっ!……あああっ!!」
 手の中でゆっくりと、丁寧にすり潰した。

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 浴室のドアが、カタリと開いた。
 手足を濡らした愛華。そのハリツヤのある肌が一段と輝いて見えたのは、微細にはじかれた水が照明の光を反射しているためだろうか。彼女はすいとバスマットの上に立ち、その手で滴を払っていた。
 誠一は、浴室に入る前とはまた違った魅力を湛える彼女の姿態や、先ほどの彼女の――自分も含めた――変貌に、ひどく狼狽していた。その面妖な心持ちをなんとか取り払おうと、彼は愛華に、
「ほら」
 と、努めて沈着に声をかけて、タオルを手渡す。が、
「ありがとう」
 そう礼を言う愛華の声は清新そのものであり、誠一は拍子抜けしてしまう。
 彼は度々、娘をひとりの女性として意識してしまっているのだ。彼自身もまた、そのことに気付いていた。不行跡な己を恥じ、自責の念を強くする。しかし、
 ――愛華。さっきのは……、子どもの悪戯、だったんだよな?
 それでも彼女の胸中となると、どうしても臆断の域を出ない。
 娘が父親に甘えてちょっかいを出す――それ自体は、どこにでもある話だろう。しかし、誠一自身は、どうも釈然としない。違和感があるのだ。得体の知れない居心地の悪さ。
 誠一の抱いたその感覚は、
「――っ!」
 彼の杞憂で終わることなく、あまりに唐突に肯んじられることになった。
「ティッシュ……、ある?」
 愛華の声色が低く、艶めかしい響きを帯びていると感じたのは、誠一の気のせいだったのだろうか。事の始終を見ていた彼には、言葉の意味がすぐにわかった。
 蛾だった。
 宙に舞うそれを、たった今、愛華は素手で捕らえた。身体、いや、眉ひとつ動かさずに、腕だけをしならせて。それだけでも、誠一の身を凍りつかせるには十分過ぎるほどだった。だが、その後の彼女の挙動は、なおいっそう、誠一を震撼させた。
 愛華は、誠一から受け取ったティッシュの上に握った手をかざし、
「ほら」
 と、手の中にあるソレを貪婪にすり潰してみせた。
 誠一は言葉を失い、うろたえる。血の気が引き、足が竦む。
 愛華の瞳が、俄かに輝きを増した。彼女は口元を弓なりに曲げ、小首を傾げて誠一の顔をじっと覗き込む。
 さっきまで蛾だったはずの粒粉が、パラパラとティッシュの上に注がれていった。

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 誠一は、しばしぼんやりと窓際に佇んでいた。
 掌でこめかみの辺りをかるく二度ほど叩き、わずかに火照った身体に風をあてる。
 ひとつの街灯。そのほのかな光が、闇の一部を謙虚に切り取っていた。
 誠一は、窓とカーテンを閉めた。振り返り、見るともなしに部屋の様相を眺める。
 携帯電話のランプが点滅している。不在着信の通知だ。誠一は携帯電話を手に取り、その表示を確認する。発信相手は麻美子だった。すぐにかけ直す。ツーコールを待たずして、相手の応答ボタンが押された。
「あ、あな……いえ、誠一さん。こんばんは」
 懐かしい声だった。わざわざよそよそしい態度をとろうとするあたりが、実に彼女らしい。変わらない元妻の姿に思いを馳せ、誠一は感慨にひたる。だが、麻美子は送ってきたメールの様子通り、深刻な口調を貫いていた。
「あの子の様子、どうですか?」
「ああ、今シャワー浴びてる」
「おかしなとこ、無いです?」
「……ん」
「言いにくいんですけど……、私、時々あの子がわからなくなるんです」
「年頃……ってのもあるのかな?」
「そ、そういうレベルじゃないの! 絶対あの子、頭おかしい! 狂ってる!」
「そんなこと言うもんじゃない!」
 麻美子につられ、誠一も、つい語調が荒くなる。
「すまん。とにかく、落ち着いて」
「……ごめんなさい」
「ちゃんと聴く。続けて」
「ありがとうございます。ん……、あの子、時々すごく残酷なことをしたり、乱暴になったり、見下すような冷たい態度をとったり――」
 誠一の胸が疼く。さすがに、心当たりが無いとは言えないからだ。
「でも、本人には罪悪感が全く無いみたいで。……精神的にも、幼い気がするんです」
 再び、彼の心に重圧がかかる。思い当たる節がありすぎる。だが、
「注意して様子を見てみるよ。何かあったら、連絡する」
 誠一はなぜか否定したくて、
「……とにかく、今日は任せて」
 努めて明るく、そう言葉を紡いだ。
 返事に迷っているのだろう。麻美子からの言葉は、少し間を置いてから発せられた。
「はい。わかりました。わがまま言ってごめんなさい。私も疲れちゃって……」
「ゆっくり頭を休めて」
「ありがとうございます。では、また」
 そこで通話は切れた。

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 ふわりと立った湯気が、二人をのみ込んでいた。
 誠一は、自分の行為と精神の意味を説明できなかった。もちろん、他人に問われているわけではない。が、彼にとっては答えなければならないものでもあった。問うているのは、彼自身だからだ。
 ――俺は、浴室で愛華の足を流していた。その最中に、愛華がバランスを崩した。慌てて手を伸ばした俺もまた、愛華と同じように体勢が乱れた。俺だけが倒れた。弾みで、愛華の足……が、俺の太腿……に、ドスン……と、乗った。その時、俺はとっさに……?
 誠一は愛華の前に跪き、項垂れたまま陶酔した表情を浮かべていた。太腿にかかる負荷に耐えながら、彼は胸中で、ありがとうございます、と何度も叫んでいた。
 愛華はひと言「ごめん、お父さん」と、慌てた声を出す。だが、誠一の耳には、その言葉がひどく切ないものに感じられた。
「お父さん、濡れちゃったね」
「はぃ……あ、いや、……ああ、そうだな」
「でも、この姿勢、楽かも」
 と、愛華は悪戯っぽく言を吐き、誠一の太腿に乗せた足に、
「あ……はっ、あ、あぁ……」
 じわじわと力を込めていく。次第に大きくなる重圧が、誠一の精力を加速させる。彼の陰茎が怒号を極める。だが愛華はすぐに「ごめんね」と、徐々にその圧力を弱めていった。
 ――そ、そんな、……そんな!
 とっさに、誠一は、己の太腿から消えゆく愛華の脚を掴んだ。あらためて両掌を上にして彼女の足を捧げ持つと、ゆっくりと自分の口をそこへ近づけていく。
「お父さん、……何?」
 愛華がきょとんとした顔で問う。純粋な響きをもったその彼女の言葉で、
「あ、……いや」
 誠一は、ようやく我に返ることができた気がした。
「大きくなったなぁ、と……、思って」
「えへへ」
「それにしても……、――っ?」
 誠一の言葉は、愛華の行為によって遮られた。彼女は嬉々とした表情を湛え、
「ぐっ……あ、あああっ……。あああっ!」
 再び、己が足を誠一の太腿に置き、じわじわと体重をかけていった。それから足先を器用に、しなやかに――、まるでツチイナゴを潰して嬲るかのように動かし続けた。

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 わずかに開けた窓から春風が入り、愛華のミディアムヘアをさらさらと靡かせた。
 膝上丈の半袖白ワンピースが、まだ幼さの残る彼女の綺麗な手脚のラインを際立たせている。その上に羽織っているのは、淡い黄色の半袖カーディガンだった。
 誠一は、こうして愛華の傍にいられる幸福を、あらためて噛みしめていた。五年ぶりに見る彼女は、本当に美しく育っている。その肌のきめ細かさや、全身を纏うしなやかさ、ほのかに香る甘美な匂いや、耳に心地良い声、今にも透けて消えてしまいそうな、それでいて確かな実存性を備える神秘的な雰囲気。
 愛華は、娘でありながら、どこか敬虔の念を誠一に抱かせる存在だった。
 ひときわ誠一が魅入られているのは、切れ長の瞼の奥で輝きを放つ、射抜くような鋭い、大きな瞳だった。覗き込めば、たちまち心そのものが破壊されてしまいそうな――。だが、その瞳は同時に、見る者全てに深い慈悲を与えるかのような神々しさをも帯び、それが誠一の心を掴んで放さない――いや、むしろ彼自身が、進んで心を授けているかのようだ。
 しばしその瞳に捕らえられていた誠一は、頬を赤らめ、
「まあ――、その……のんびりしてけ」
 自分を見失わないように努めなければならなかった。
 ――俺は父親だ。当たり前だ。
 平常心を取り戻そうと、なんとなく頭を垂れる。
 その時、愛華の中に不自然なものを見たような気がして、誠一は再び心を乱した。
 足だ。
 彼女のそれは、ひどく汚れていた。先ほど見た残骸が、誠一の頭をかすめる。再び吐き気を催し、何とか堪える。愛華のもつ美と醜の矛盾とその融合、調和、共存。それらが、彼の精神を混乱させる。同時に誠一を襲ったのは、己のマラの怒張、という受け入れ難い現実だった。
「足、洗ってきなさい」
 努めて冷静に、誠一はそう促した。
「うん。じゃあ、お父さん洗って」
「っ……あ、甘えるな。もうそんな歳じゃないだろ?」
「甘えたいよ。だって――」
 言葉を中途で切り、
「こ、こら……」
 愛華は誠一の手を引いて浴室に押し込んだ。彼の裾をまくり、シャワーを手渡す。
「準備、整いましたっ!」
「……っ、たく」
 誠一は湯の温度を調整し、慎重にカランをひねった。

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 ふたひらの桜が、愛華の艶やかな黒髪を彩っていた。
 誠一がこのアパートの部屋に人を通すのは、これが初めてだった。実の娘とはいえ、ドアを閉めて施錠した後も、誠一はなんとなく落ち着かない気分だった。だが、そんな彼の心とは裏腹に、愛華は無邪気でくったくない笑顔を浮かべていた。玄関に靴を脱ぎ捨て、
「お父さんの部屋だぁ。すごーい」
 勢いよく室内にとび込む。
 アパートの一階。六畳一間のありふれた和室だ。内装は地味で、洒落た家具ひとつない。目を惹くものと言えば、彼が趣味で育てている観葉植物のステレオスペルマムと、最近まで捨て猫だった目も開かない雑種くらいだろうか。男の一人暮らしには、それで十分なのだ。まして、ここはバス・トイレ別で安い。彼にとっては好条件の部屋だった。しかし、
 ――娘を入れるには、ちょっと……、なあ……
 誠一は後悔していた。愛華が来て、ここで一日過ごすことは、今日の朝の段階でわかっていたのだ。せめて、もう少し何かしておくべきだったな……、と。
 だが、その後悔は無用らしかった。
 愛華はぐるりと室内を観察しては、いろいろなものに興味を示す。猫やステレオスペルマムはもちろん、平凡な家具や台所用品に至るまで、彼女は瞳を輝かせては、快哉の声を上げた。
 誠一は、そんな娘の様子を見てホッと胸を撫で下ろした。ようやく肩の力が抜けた彼は、自分も靴を脱ごうとその視線を下へと向ける。その時、愛華の脱ぎ捨てた靴が目に入った。
「愛華、靴はちゃんと揃えなさい」
 さらりと注意し、誠一は自分の靴を脱いで丁寧に揃える。愛華は「はーい」と、あからさまな空返事をした。まだ室内を見回すことに夢中なのだろう。
「はぁ、全く……」
 と、誠一は溜息混じりに呟き、彼女の靴を揃えようと手を伸ばした。
 リボンバレエシューズのようだ。光沢のある、桃色を基調とした可愛らしいデザイン。その片方は靴底が上を向いており、一部に汚れが見られる。桜の花びらが三枚。他に見られるのは、赤と、黒と、茶褐色と――。もちろん誠一には、その汚れの正体がすぐにわかった。今日の夕方までは確かに生命のあった……、今は亡きむくろだ。誠一の脳裏に、女の子を助けた時の愛華の姿が過る。そこには、彼女の笑顔と殺戮が矛盾なく共存していた。
「っ……!」
 と、突如、誠一は不可思議な嘔吐感に襲われた。慌てて口を抑え、すぐにトイレに駆け込もうとする。が、次の瞬間には、もう吐き気はその姿を消していた。
 愛華は窓際に佇み、静かに春の陽光を浴びていた。ひと通り室内を観察し終えたらしい。誠一は、愛華の靴を揃えることも忘れ、彼女の傍にそっと歩み寄る。
 誠一の瞳の中で一瞬、愛華と麻美子の姿が重なった。

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「きゃあっ!」
「――っ!」
 突如、女の子の悲鳴が上がり、誠一は身を硬くする。その声を聞いて集まってきた男女の群れもまた、彼の緊張を高める。
 皆の視線を集めたのは、大きなツチイナゴだった。茶褐色で、細かい毛の生えたバッタだ。それが門前に置かれたプランターから唐突に跳び出してきたことが、女の子の声の原因だということだった。
「……はああぁ」
 誠一の強張った筋肉が、急速に弛緩していく。彼は安堵の溜息とともに、
 ――びっくりさせるなよ。俺の心臓を止める気か。
 心の中で悪態をついた。
 野次馬たちも、原因がわかった途端、興醒めしたようだった。それぞれが、時間の無駄だったと言わんばかりに、己の道へと歩を戻す。しかし女の子は、未だにアスファルトの上のツチイナゴに怯え、身を震わせていた。もしかしたら、あまりのショックで足が竦んでしまっているのかもしれない。
 ――やれやれ。
 できれば関わり合いになどなりたくない、というのが誠一の本音だった。だが、こういった状況で見てみぬふりをできるほどの冷たさも、彼はもち合わせていない。お人好しなのか、お節介なのか……
「ん、あー。あの――」
 その声とともに、再度チャイムが鳴った。
 女の子は硬直したまま、視線だけを誠一に向ける。そこに涙が溜まっている――と、彼が認識したときには、既に女の子の視線は目の前のツチイナゴに戻っていた。
「今、追い払うから」
 と前に踏み出そうとした誠一の歩は、クシャッ――、という聞き慣れない音によって止められた。
 硬直が、女の子から誠一へと移った。
 地面――そこにいるはずのツチイナゴ――を執拗に踏みにじる彼女の脚はしなやかに、そして力強く、アスファルトという名の舞台で踊っていた。誠一はゆっくりと視線を上げ、彼女の顔を覗き見る。
 ――天使?
 それが、彼の素直な第一印象だった。
「もう大丈夫だよ」
 と、優しく微笑む天使に、しゃくり上げながら女の子が礼を言う。その間、誠一はその天使から目を離すことができなかった。彼女もその視線に気付いたのか、誠一のほうへと顔を向ける。何よりも彼が驚いたのは、
「あ、お父さん!」
 その天使が、五年ぶりに再会する自分の娘だという事実だった。

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 ――背は高くなったかな?
 静かな校門の前で、誠一は大きく二度、深呼吸をした。
 娘に会える。そう考えただけで、誠一の拍動が速くなる。楽しみで仕方がないのだ。
 離婚して早五年。
 誠一は、麻美子と愛華の関係に配慮し、なるべく接触を避けるようにしてきた。麻美子のメールの様子が気がかりでなかったわけではないが、いざここへ来てみれば、期待がそれを大きく上回るのも無理はない。
 彼は瞳を輝かせ、
「はああぁ、ふうぅっ……、……はああぁっ」
 再び、今日何度目になるかわからない深呼吸をした。
 もともと神経質で臆病な性格だ。学校の前に立つ――ただそれだけのことで、彼にかかるプレッシャーは相当なものだった。とは言え、別に疚しいことがあるわけではない。堂々と中へ入って職員に事情を説明すれば、あるいは効率的なのかもしれない。だが、そんなことにすら、彼は二の足を踏んでしまう。
 ――生徒たちに変な目で見られたら……?
 ――緊張してうまく説明できなかったら……?
 ――不審者扱いされたら……?
 そういった様々な不安が、先に誠一の頭を埋め尽くしてしまうからだ。そのため、彼は未だこの校門前で、期待とともに、所在なく立っていたのだった。

 やがて、チャイムが鳴った。
 誠一はなんとなく落ち着き、安堵の息を吐いた。響く鐘が、耳に障る雑音の数々を、少しでも消してくれるような気がしたからかもしれない。規則的な音に、しばし身を委ねる。
 しかし、彼の安息も束の間のことだった。
 授業を終えた生徒たちが、ぞろぞろと校舎から出てきたからだ。時刻は既に夕方。下校を告げるチャイムの音だったことに今さら気付き、誠一はあたふたと校門周りをうろつく。同時に、彼は自分のその行為が本格的な不審者のそれに近いと察し、今度はポケットに手を入れて、傍に立つ樹を眺めているだけの人のふりをする。それでも、出てきた生徒たちの中に娘らしき人物がいないか、ちらちらと瞳だけを動かして確認する。
 だが、誠一が思っているほど、生徒たちの目は彼に向けられはしなかった。ただ下校する者と、校舎周りに残る者とが存在するだけだ。幸い、下校したのは全て男子生徒だった。
 誠一は気を落ち着けようと、再び深呼吸をした。見れば、自分の他にも、何人かの大人の男女がそこここを歩いている。彼は自嘲し、あらためて、まだ残っている生徒の群れの中に目を遣った。

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