{
2009/08/28(金) }
足を踏み入れた時、夏美は動揺を隠せなかった。場所を間違えたのかと思ったからだ。
洒落た内装。清潔感の漂う天井や壁。艶やかなフローリング。
道場というよりは、教室といった雰囲気だった。
「一! 二! 三!――」
師範と呼ばれた老人が、鏡を背に拳を突き出している。それに続いて、大人から子どもまでの男女が、同じ動作を繰り返している。年齢層も幅広く、さほど難しい動きはしていない。
夏美はその様子を見学しながら、次第に緊張が解れていくのを感じていた。
格闘技など、かじったこともない。強靭な肉体を――、揺るがない精神力を――、そんな男臭い世界に身を投じようと思っていたわけでもない。学ぶことで、わずかでも自信がもてればいい。気晴らしになればいい。
そんな風に思っていた夏美にとって、この教室は好感触だった。
しかし、夏美のそんな淡く小さな希望は、入会手続きの用紙に記入する直前になって、もろくも消え去った。
――来た……、来た! 服を着た骸骨。……荒く濁った息遣い。……顔に浮かぶ、いくつもの吹出物……
教室に入ってきた男を見ながら、
「もう、いい加減にして!!」
夏美は悲痛の声を上げた。
教室内がにわかに静まる。夏美の応対をしていた女性も、突然のことに呆気に取られた表情でいる。
誰もが硬直する中、夏美と男の目が合う。その瞬間、男は素早くそこを飛び出し、一目散に走り去った。
「追いかけて! あの人! 早く!」
しかし、誰も動かない。動けないのだ。状況を把握しきれず、驚きや戸惑いの目だけを夏美に向ける。
「……もう、いいです!」
夏美は書きかけの書類を払うようにして立ち上がり、ペンを投げ捨てると、
「結局、いざとなったらこんなもんですよね!」
と、行き処のない不満を誰ともなしにぶつける。
「護身術なんて――」
言いながら夏美は、教室を飛び出した。
暖気の注ぐ中、夏美は辺りを見回す。しかし、やはり目的の人物は見当たらなかった。
それを嘲笑うかのように、鳴き忘れていた蝉が、一斉に歌い始めた。
佐久間は、今日も夏美の部屋を訪れていた。
呼び鈴を鳴らしてみるが、反応がない。電気もついていない。耳を欹ててみると、何か機械の音のようなものが聞こえてくる。パソコンの起動音だろうか? それなら、部屋には居るのかもしれない。眠っているのか、単に出たくないのか、それはわからない。
「こんばんは。山川さん。ご在宅ですか?」
声をかけてみる。せめて無事だけは確認したかったのだが、返答もない。
このような住宅街では、警官がうろついているだけで噂になったりするものだ。そのことを、佐久間は承知していた。根も葉もない噂で、却って彼女の負担が大きくなってしまうようでは、元も子もない。
佐久間は長居することなく、その場を離れた。
部屋の灯りをともすことも忘れていた。
『もう嫌だ・・・』
キーを叩く指には、力がほとんど入っていない。
『護身術も、警察も、あてにならない・・』
『逃げ場なんてない・・どこにも・・・どこにも・・・どこにも・・・・』
『でも、死ぬ気になれば・・・何だってできるはず・・・・・』
それはひとつの決意でもあった。
今も窓から覗かれているかもしれない。そう思うと、不安に押し潰されそうになる。
ミクシィのコメントは、今日も着々と増えていった。
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洒落た内装。清潔感の漂う天井や壁。艶やかなフローリング。
道場というよりは、教室といった雰囲気だった。
「一! 二! 三!――」
師範と呼ばれた老人が、鏡を背に拳を突き出している。それに続いて、大人から子どもまでの男女が、同じ動作を繰り返している。年齢層も幅広く、さほど難しい動きはしていない。
夏美はその様子を見学しながら、次第に緊張が解れていくのを感じていた。
格闘技など、かじったこともない。強靭な肉体を――、揺るがない精神力を――、そんな男臭い世界に身を投じようと思っていたわけでもない。学ぶことで、わずかでも自信がもてればいい。気晴らしになればいい。
そんな風に思っていた夏美にとって、この教室は好感触だった。
しかし、夏美のそんな淡く小さな希望は、入会手続きの用紙に記入する直前になって、もろくも消え去った。
――来た……、来た! 服を着た骸骨。……荒く濁った息遣い。……顔に浮かぶ、いくつもの吹出物……
教室に入ってきた男を見ながら、
「もう、いい加減にして!!」
夏美は悲痛の声を上げた。
教室内がにわかに静まる。夏美の応対をしていた女性も、突然のことに呆気に取られた表情でいる。
誰もが硬直する中、夏美と男の目が合う。その瞬間、男は素早くそこを飛び出し、一目散に走り去った。
「追いかけて! あの人! 早く!」
しかし、誰も動かない。動けないのだ。状況を把握しきれず、驚きや戸惑いの目だけを夏美に向ける。
「……もう、いいです!」
夏美は書きかけの書類を払うようにして立ち上がり、ペンを投げ捨てると、
「結局、いざとなったらこんなもんですよね!」
と、行き処のない不満を誰ともなしにぶつける。
「護身術なんて――」
言いながら夏美は、教室を飛び出した。
暖気の注ぐ中、夏美は辺りを見回す。しかし、やはり目的の人物は見当たらなかった。
それを嘲笑うかのように、鳴き忘れていた蝉が、一斉に歌い始めた。
佐久間は、今日も夏美の部屋を訪れていた。
呼び鈴を鳴らしてみるが、反応がない。電気もついていない。耳を欹ててみると、何か機械の音のようなものが聞こえてくる。パソコンの起動音だろうか? それなら、部屋には居るのかもしれない。眠っているのか、単に出たくないのか、それはわからない。
「こんばんは。山川さん。ご在宅ですか?」
声をかけてみる。せめて無事だけは確認したかったのだが、返答もない。
このような住宅街では、警官がうろついているだけで噂になったりするものだ。そのことを、佐久間は承知していた。根も葉もない噂で、却って彼女の負担が大きくなってしまうようでは、元も子もない。
佐久間は長居することなく、その場を離れた。
部屋の灯りをともすことも忘れていた。
『もう嫌だ・・・』
キーを叩く指には、力がほとんど入っていない。
『護身術も、警察も、あてにならない・・』
『逃げ場なんてない・・どこにも・・・どこにも・・・どこにも・・・・』
『でも、死ぬ気になれば・・・何だってできるはず・・・・・』
それはひとつの決意でもあった。
今も窓から覗かれているかもしれない。そう思うと、不安に押し潰されそうになる。
ミクシィのコメントは、今日も着々と増えていった。
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