{
2008/08/10(日) }
むせ返るような血の臭いの中、私は放心していた。
肉塊が散らばっている。その目の前に、ただ立ち尽くす。
静寂が部屋を包み込んでいた。まるで時間そのものが止まり、この空間だけが切り取られてしまったかのようだ。
その静寂を切り裂いたのは、ひとつの音だった。聞き慣れた音だ。一度目……そして二度目……。
そう。この音から全てが始まったのだ。私を呼ぶ……呼び鈴の音――
「こんにちは。来栖さん」
ドアの向こう側からかけられた声によって、私は現実の世界に引き戻された。
我に返った自分を見つめるのが恐ろしかった。血だらけになった肉塊は、さっき見たままの形でそこに存在している。ここは紛れもない現実の世界。決して夢や空想、異空間などではないのだ。それを認めることが何よりも恐ろしかった。
――私は……私は何てことを……
罪悪感が私を責めたてる。血塗れになっている自分の身体に気付いて発狂しそうになる。自分が何者なのかすらわからなくなってくる。
「来栖麗さん。いらっしゃいますね」
再び声をかけられる。男性の声だった。
こんな状況でドアを開けることなど、到底できないはずだった。映画やドラマなどでよく見た、この危機的な状況。そこに立ち会った者は、必ずこう思うはずなのだ。
――どうやってこの場を凌ぐか――と。
居留守という手段が思いつかなかったわけではない。招かざる訪問者であれば、ドアのこちら側からでも断ることだってできたはずだった。
しかし、私はそうしなかった。……そうできなかった。
自分の犯した罪への恐怖が、刺すように私を突き動かしていたからだ。
ここが夢でも空想の世界でもなく、現実だという事実。この手で死骸へと変えてしまった老人と同じ空間にいる、血塗れの自分という存在。
どこを見つめているのか、何を感じているのか、何をするべきなのか、何に怯え、何に囚われているのか。その全てがわからない。わからないということ自体がどういうことなのかわからない。
きっと、自分が自分でなくなってしまうことが一番怖かったのだろう。
来訪者など誰でもよかった。ただ、自分の存在自体を救ってほしかった。
――私はきっと、とてつもなく弱い人間なのだ。きっと、とてつもなく……
三度目の声が聞こえると同時に、私は部屋のドアを開けた。それと同時に、やはり後悔もした。
何と馬鹿なことをしたのだと、今にも内なる声が聞こえてくるようだった。
これで自分の人生は終わりなのだ。ドアのこちらから現れた血塗れの女を見て、その男は驚くだろう。怯えて腰を抜かすかもしれない。もしかしたら発狂するかもしれない。
しかし、その男は驚かなかった。怯えもしなければ、発狂もしない。それどころか、血塗れの私の顔を見ながらにっこりと笑いかけさえする。男は私に一礼すると、
「失礼します」
と言うが早いか、家の中へと上がりこんできた。
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肉塊が散らばっている。その目の前に、ただ立ち尽くす。
静寂が部屋を包み込んでいた。まるで時間そのものが止まり、この空間だけが切り取られてしまったかのようだ。
その静寂を切り裂いたのは、ひとつの音だった。聞き慣れた音だ。一度目……そして二度目……。
そう。この音から全てが始まったのだ。私を呼ぶ……呼び鈴の音――
「こんにちは。来栖さん」
ドアの向こう側からかけられた声によって、私は現実の世界に引き戻された。
我に返った自分を見つめるのが恐ろしかった。血だらけになった肉塊は、さっき見たままの形でそこに存在している。ここは紛れもない現実の世界。決して夢や空想、異空間などではないのだ。それを認めることが何よりも恐ろしかった。
――私は……私は何てことを……
罪悪感が私を責めたてる。血塗れになっている自分の身体に気付いて発狂しそうになる。自分が何者なのかすらわからなくなってくる。
「来栖麗さん。いらっしゃいますね」
再び声をかけられる。男性の声だった。
こんな状況でドアを開けることなど、到底できないはずだった。映画やドラマなどでよく見た、この危機的な状況。そこに立ち会った者は、必ずこう思うはずなのだ。
――どうやってこの場を凌ぐか――と。
居留守という手段が思いつかなかったわけではない。招かざる訪問者であれば、ドアのこちら側からでも断ることだってできたはずだった。
しかし、私はそうしなかった。……そうできなかった。
自分の犯した罪への恐怖が、刺すように私を突き動かしていたからだ。
ここが夢でも空想の世界でもなく、現実だという事実。この手で死骸へと変えてしまった老人と同じ空間にいる、血塗れの自分という存在。
どこを見つめているのか、何を感じているのか、何をするべきなのか、何に怯え、何に囚われているのか。その全てがわからない。わからないということ自体がどういうことなのかわからない。
きっと、自分が自分でなくなってしまうことが一番怖かったのだろう。
来訪者など誰でもよかった。ただ、自分の存在自体を救ってほしかった。
――私はきっと、とてつもなく弱い人間なのだ。きっと、とてつもなく……
三度目の声が聞こえると同時に、私は部屋のドアを開けた。それと同時に、やはり後悔もした。
何と馬鹿なことをしたのだと、今にも内なる声が聞こえてくるようだった。
これで自分の人生は終わりなのだ。ドアのこちらから現れた血塗れの女を見て、その男は驚くだろう。怯えて腰を抜かすかもしれない。もしかしたら発狂するかもしれない。
しかし、その男は驚かなかった。怯えもしなければ、発狂もしない。それどころか、血塗れの私の顔を見ながらにっこりと笑いかけさえする。男は私に一礼すると、
「失礼します」
と言うが早いか、家の中へと上がりこんできた。
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