Black Onyx [ブラックオニキス];2011/ 05の記事一覧

ここでは、Black Onyx [ブラックオニキス]での 2011年 05月 に掲載した記事を表示しています。
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心地よい春風の吹く季節となりました。
舞桜が描く風景を横目に連載を開始し、今では葉桜へと様相を変えた樹を眺めています。
変化は常。常とは変わらないこと。変わらないとは不変のこと――変化は不変。
変わることは変わらないこと。
そこにあるもの。幸せ。でも、降ってはきません。きっと、幸せを幸せと捉えることで幸せになれるのでしょうね。
いつでもどこでも、幸せを見つけられる。そんな風に生きられたら素敵だな、と思います。

「純粋」

本作のテーマに掲げて執筆してみました。
単純なようで、いろいろな意味が込められている言葉ですね。
もうどこかに置き忘れてきたような――
それでも、まだ自分の中に探し求めているような――
そんな感傷的な気分に浸っている自分を、ただ笑っていました。

純粋な心。
それは、時として、誰かに傷つけられやすい。
同時に、
それは、時として、誰かを傷つけやすい。
だから、
純粋な心は「諸刃」であり、決して「美そのもの」ではない。
そんなことを考えていたら、何かが指の間からするすると逃げていく感じがしました。

愛華を可愛がってくださった方々、どうもありがとうございました。

長期にわたる連載でした。
最後までお付き合いくださった皆様に、深く感謝申し上げます。
楽しんでいただけていれば幸いです。
今後も、Black Onyx [ブラックオニキス]を、どうぞよろしくお願いいたします。

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 愛華の顔は、一転、戸惑いの色を湛えていた。
 脱力したように、ぺたんと地面に尻をつく。そして、
「……どうして?」
「知らなかったもん……」
「私が潰そうとしてて、お父さんがいって――」
「だから、お父さんが……、嬉しくなくなって……」
 と、言葉を連ねていく。その瞳には、涙が溜まっていた。
 誠一は答えなかった。――俺は卑怯だ。彼は、素直にそう思った。だが、今はこの虚脱感や安心感に身を委ね、ただ苦痛が消えゆく時を待ちたかった。
 ――時々あの子がわからなくなる、か。
 誠一は、通話口で聞いた麻美子の言葉に思いを馳せた。ただ、頭がおかしいなんてことはない。狂ってもいない。それだけは言える。誠一は、そう確信していた。
『時々すごく残酷なことをしたり、乱暴になったり』
 ――そうだな。それで喜ぶ人間がいるから。そして、他に方法を知らないから。
『見下すような冷たい態度をとったり』
 ――それも……同じことかな。
 誠一は心の中で、麻美子と会話していた。気が紛れる気がしたからだ。今感じている苦痛から、少しでも解放されたい。そう思っていた。
『本人には罪悪感が全く無いみたいで』
 ――良いことをしてるつもりなんだ。彼女なりに、一生懸命。
『精神的にも、幼い気がする』
 ――それは、その通りかもな。
 誠一は仰向けのまま、あらためて愛華に目を遣った。へたり込み、未だ放心したような表情を浮かべている。それでも決して美しさを損なわない彼女に、誠一はあらためて感服する。特にその瞳は、虚を湛えながらも輝きを纏い、力強くさえ感じられた。
 ――麻美子。愛華は冷たくなんてない。逆だ。心優しい子なんだ。表情ひとつで察することができるほど他人の気持ちや感情に敏感で、相手を喜ばせたい一心で頑張る。その信念はとても固くて、最後までやり遂げようと努力する。最高の娘じゃないか、なあ。
「ごめんな……嘘、ついてて」
 誠一は、愛華にそう声をかけた。
「愛華に潰されていったものが、羨ましかった。お父さんも、愛華に踏み潰されたい。殺されたい。本気でそう思った」
「でも、死ぬのは……、殺されるのは、やっぱり怖い。いざとなって、それがわかった」
「それに、愛華――。お父さんは、お前を人殺しにするわけにはいかない」
 彼はもう、隠さなかった。
 愛華は口を挟むことなく、誠一の言葉にじっと耳を傾けていた。不思議そうな顔で。
 やがて俯き、彼女はポツリと呟いた。
「でも……、やっぱり潰さなきゃいけないよ。そう望まれたから」
「望んでないよ」
 誠一はかぶりを振るが、愛華の瞳の光は消えなかった。

「ううん。――お母さんが望んでるよ」



END

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「っ……、ぎっ、あああっ!」
 誠一の叫びが、夜の市街地にこだました。
 時間帯、時代、土地柄。事情は様々あれど、ここにあっては、叫び声のひとつやふたつで顔を出す者はいない。誠一もまた、そのような「誰か」に期待はしているわけではなかった。
 ただ、叫ぶしかなかった。痛みに対して、人間の理性はあまりに無力だ。
「が、ああ……あっ!!」
 声を振り絞る。涙が溢れる。再び吐瀉する。
 愛華はそんな誠一の様子を見ながら、その瞳に妖しい輝きを灯した。彼の両足首を掴んで引き上げ、自分の腰あたりに固定する。そして、
「いっ……、やめ――、が、あああっ!」
 彼の股間を、何度も踏み付けた。
「やめてください! やめてください! やめてくださいぃっ!」
 恥も外聞もなく、誠一は泣き、喚き、身体を波打たせ、ただ許しを乞うた。
「もう、嘘は言わなくていいの」
「う、嘘じゃないんです!」
「ううん。お父さんは喜んでるよ」
「もう喜んでないんです! もう逝きましたし、これ以上は!」
「いった?」
「つまりあの、さっきまでは、気持ちよかったのが――」
「うん」
「今ではもう、気持ちよくなくなった、ってことです!」
「――そうなの?」
「そうです! 男は、逝ったら、そうなるんです!」
 愛華はそこでピタリと足の動きを止めた。ひどく震えている誠一の顔を覗き込むように、すうっと顔を近づけて観察する。誠一には、その時間がとても長く感じられた。冷や汗が頬を伝う。震えが止まらない。空唾を何度も飲む。
 やがて、
「ホント……、だ……」
 と呟き、愛華は誠一の両足から手を放した。だが、その表情は釈然としない。
 じわり。
 彼女の手から解放され、誠一は失禁した。
 陰部にできた染みが、次第に濡れ広がっていった。

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 骨を砕く鈍い音と、
「ぎぃあああああっ!……ぐ、ああああ!」
 誠一の絶叫が、静まりかえった宵の中に皹を入れた。雑草を荒らしながら地面を転がる彼の鳩尾に、愛華の鋭い蹴りが加えられる。
「ぐ……っは、あ……」
 愛華は誠一の髪を掴み、その動きを制する。と、即時に脚を振り上げ、シューズの爪先を、彼の腹に淡々と突き刺し続けた。十発――、二十発――。誠一は、その度に苦悶の声を上げた。
「あ……っ! がはあ!……あい……、か……」
 右肩や左腕をはじめとする全身の激痛に、内部をかき回されるような苦しみが加えられ、
「おえ……え、げえええっ!」
 彼は嘔吐した。わずかに血液の混じった吐瀉物が、地の雑草たちを覆う。愛華が手を放すと同時に、誠一は一も二もなく己の吐瀉物の中に顔を埋めて倒れ、ヒクヒクと身体を痙攣させた。
 愛華の微笑が、満面の笑みへと変わる。彼女の瞳は、獲物を狙う獣のようでも、小鳥を甚振る猫のようでもない。爪を隠した鷹の目、といった表現も適切でない。彼女のもつそれは、純粋な子供の瞳そのものだった。
 愛華は、誠一の身体を仰向けに蹴り転がし、
「……やっぱり、これって硬いんだね」
 彼のスラックスの膨張部に手を宛がった。興味深げに、指先や掌でソレを弄ぶ。
「っ……あ、ふあぁ、ああ」
 悦楽の声を上げる誠一の表情を見ながら、愛華はすいと立ち上がり、
「お父さん、ここ触られても嬉しいんだ」
 と、今度は足先で擦る。
 ――全身が痛い。苦しい。でも……
 誠一はその悦楽にひたった。股の間で蠢く愛華の足、そこからすらりと伸びる脚線、彼女の肢体、香り、全てが彼の欲情を昂騰させる。そして、
「そう言えば、私の靴と、どっちが硬いかって――」
「ひっ……」
「まだ比べてみてなかったよね?」
 愛華が誠一に問いかけ、その足を高く持ち上げた時、
「あ、いぃっ……あっ!」
 誠一は果てた。
 わずかに遅れて、愛華の足が、誠一の陰部に力強く叩き込まれた。

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 ***

 「……みつけた」

 その可憐な声が、誠一に絶望を告げた。
 恐怖のあまり、振り返ることもできない。が、誰であるかは見ずともわかる。
 天使のように軽やかで、少し舌足らずな喋り方。可愛らしさを纏った甘い声が、誠一の耳を柔らかく、冷たく撫でた。
「ひっ……、ひ……」
 攣ったような誠一の微声が、夜風の音と重なる。
「どうして――?」
 ――逃げた理由。
 怖かったからだ。愛華のまっすぐな瞳と、躊躇のない行為。次々と頭を過る光景が誠一の恐怖心を膨らませ、それに順ずるように、背後にある彼女の影もまた、大きな、大きな存在として彼の心の中に巣食った。
「た、助けて……許し――」
 舌も引かぬ内に、誠一は駆け出した。が、背中を蹴り飛ばされ、地に額を打つ。そして、
「っが、あああっ!」
 硬いシューズに、左腕を踏み押さえられた。
 身を翻し、彼女は誠一を頭上から見下ろした。誠一がゆっくりと視線を上げる。
 相変わらず、愛華は美しかった。腕に乗せたシューズから、そよぐ風に靡くワンピースが覗かせる下着まで――そのすらりと伸びた綺麗な脚のラインは、是非にも誠一を魅了する。彼を見下ろす愛華の瞳は黒く艶やかに彩られ、しっとりとした潤いを保っていた。もちろん、闇に覆われたこの場だ。彼には、愛華の表情までを窺い知る術はなかった。
「痛い?」
 答えるまでもなかった。答える余裕すらなかった。
「でも、嬉しいんだよね?」
 否定したい自分と、否定できない自分。徐々にその足に体重をかけ始めた愛華を前に、
「ぐ、……い、あああ……」
 誠一はただ、呻いて応えるしかなかった。
「さっき、もう訊かないって決めた……」
 彼女の言う、誠一の嘘。彼女の考える、大人の思考の複雑さ。事情。嘘だという自覚がないのかもしれないという、彼女の推測。それら全てを含んだ言葉だったのだろう。
「私は、喜んでくれるって信じてるから」
 言うが早いか、愛華は誠一の腕を捕らえていた足を高く持ち上げ、素早く、その足を同所に叩き落とした。

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 狂ったように弾み、咳き込み、涎をだらだらと零し、胃液をまき散らし、足でバタバタと床を打ち、全身を波打たせ――
 やがて誠一は、床上にぐったりと突っ伏した。
「ぐふ!……っあ、お、えあ……」
 時折、彼の口から音が鳴る。吐瀉物が排出される。
 ――いっそ、意識を失ってしまいたい。
 誠一は生まれて初めて、そう願った。だが、
「ひぃ、っぐ……ああっ!……がああああ!」
 なおも体中に叩き落とされている愛華の足――そこから伝わる痛みや苦しみ、右肩を断続的に襲う激痛、催す嘔吐感。その全てが、彼の気絶を許さない。
 できるなら夢であってほしい。目覚めたら布団の中で、寝汗をたくさんかいていて、気付けば朝で、いつものように仕事に出かける。苦痛を少しでも紛らわしたかったのか、彼はそんな自分を思い描いた。しかしそれは所詮、叶わぬ夢という名の妄想だ。この苦痛が現実でないのなら、もう恐ろしくて眠ることすらできないだろう。
 輝きを失った誠一の瞳を覗き込み、愛華はくすりと笑みを零した。
 彼女は喜んでいる。根拠は、誠一の表情が「喜び」の色を湛えているから。彼は確かに怯えている。許してほしいと願っている。だが、この状況下でもなお、陰茎をそそり勃てているのだ。今の誠一になら、愛華の笑みの意味もよくわかるだろう。
「ゆ、許して……」
「…………」
 愛華はもう誠一の言葉に答えなかった。静かに、彼の左肩に足をかける。
「――っ!」
 ドスン――、という踏音は、床を鳴らした。寸でのところで、誠一は愛華の踏み足をかわしていた。彼の思った通りだった。相変わらず、愛華が逡巡することはない。
 誠一の瞳に光が戻る。
 ――逃げろ! 逃げろ! 逃げろ!
 自身を捲くし立てる言葉が、彼の心中に響き渡る。
 愛華の追撃を避け、這うように、必死で駆ける。
 ――間に合ってくれ!
 背後。遠くに聞こえた「はぁ……」という彼女の吐息が、誠一に微々たる安心を与えた。
 誠一は倒れ込むようにトイレに入り、鍵をかけた。この部屋が一階であることに、これほど感謝する日が来るとは思っていなかった。窓をそっと開ける。
 彼は外に転がり出るが早いか、あてもなく闇の奥へと進んでいった。

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 発作的に、誠一はガバッと身体を起こした。
 恐怖心が急速に膨れ上がっていく。身体を丸め、
「ゆ、許してください!」
 とっさにそう叫んでいた。無意識に敬語になる。
「また、嘘……?」
 と、愛華は、丸くなって震える誠一の背中を、腰を、腕を、脇腹を、太腿を、力いっぱい踏み付ける。身体のそこここが、徐々に赤みを帯びてくる。その一部は擦り切れ、血が滲んでくる。
「ぐ!……う、うそじゃ、んぐう!……ない、です。ゆ……うがっ! 許し――」
 言葉と呻きを混在させながら、誠一は必死で訴えた。――痛い。怖い!
「――本当に?」
 愛華は彼の髪を掴んで持ち上げ、その顔を覗き込む。誠一は、視界の近距離に突如現れた彼女の美しい顔に、思わず見惚れてしまった。きめ細かい、しっとりとした肌だ。桃色に艶めく唇の魅力は、春の桜の比ではない。だが、彼女の透き通るような瞳は、にわかに失望の色を湛えていった。
「大人って、難しいね……」
 ――どういう意味だ?
「もう、……訊かない」
 愛華の言葉の意図が把握できず、誠一はうろたえる。
 ――理解してもらえたのだろうか?
 青ざめていく誠一を、愛華はただじっと見つめた。彼がわずかな安堵の表情を浮かべたその時、
「ふっ!……がああ」
 愛華の脚が、誠一の顔面を蹴り飛ばした。――と、即時に彼女は、仰向けに倒れ込んだ誠一の腹に、勢いよく足を踏み下ろす。
「ぐふ!……っあ、お、えあ……」
 絶えず目下に誠一を捉えながら、愛華は優雅に舞った。踏み下ろした右足を軸にして、くるりと回転する。その硬い爪先が腹部の内にまで喰い込み、誠一はさらに呻く。流れるように、しなやかに、愛華の左脚が躍動する。そうして振り上げられた足は、
「――っ!」
 ゴキッ――、という鈍い音を伴い、彼女の全体重を超過する衝撃を、誠一の右肩へと伝えた。その一連の動作は、実に美しいものだった。
「が……、ぎぃ、ああああああ!」
 誠一は、ひときわ大きく絶叫した。

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「ひ……」
 誠一は慄いた。
 痛む腹と顎を手で押さえながら、彼は身を縮こませ、硬直した。わずかに肩が微振している。息が荒い。愛華の作った機械の破片と、自己が重なる。
 ――怖い。
 それが、誠一の率直な感情だった。だが、彼はそこから視線を逸らそうとはしない。逸らしたくないのだ。眼前の光景と、それを作り上げた彼女の脚という名の凶器を見つめてもなお、いや――、見つめているからこそ、彼のモノは勃起をやめない。スラックスの中で、ビクビクと下品に踊っている。じわりと亀頭から溢れる液体が、彼の下着を汚す。
「あぁ……」
 誠一の喉から、切なく儚い、弱々しい声が漏れた。
 ――蛾、鉛筆、ステレオスペルマム、子猫、そして携帯電話。思えば、ツチイナゴの時もそうだった。対象が何であれ、愛華は壊すことに微塵のためらいも無いのだ。無論、生命の有無など関係ない。破壊することに意義を見出しているようにも見える。とは言え、愛華は行為自体を楽しんでいるわけではない。なぜなら、彼女が満足げな笑顔を浮かべるのは、美しい光をその瞳に宿すのは、いつも……、いつも……
 愛華の脚がしなり、誠一の身体が蹴倒された。間を置かずしてその足は、誠一の掌を踏み躙っていた。
「ぐあああっ!」
「ふふっ……」
 ――いつも、俺の表情、という結果を見ている時なんだから。
 時に、指のひとつひとつに爪先をねじ込むように、時に、掌全体を蹂躙するように、愛華の足は器用に蠢いた。誠一が、断続的に苦声を上げる。やがて彼女の足先は、誠一の表面をなぞるように、するすると移動した。
 腕から肩へ、喉から顔へ、それから胸、腹、太腿、そして――
「――っ?」
 ピタリと、その動きが止まった。誠一の陰茎の上で。
「何、これ?」
「……えっ?」
「なんか硬い……」
 言いながら愛華は、シューズでコツコツとそこをつつき、ぐりぐりと踏み拉く。
「あ……、あああ……」
 誠一の瞳が、次第に虚ろになっていく。愛華はその表情を見て、ゆっくりと口の端を持ち上げた。足の動きを止め、ポツリと呟く。

「それ、私の靴と、どっちが硬いのかな――?」

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 誠一は、子猫の身代わりになった。

 はち切れんばかりに膨れ上がった自分の陰茎を、誠一は恥じた。
「ぐうっ!」
 彼の腹に深く埋まったのは、先ほど履いた愛華のリボンバレエシューズの爪先だった。
 それは、
「……うぇっ――、あぐ……」
 ひどく、重かった。まるで、トゥシューズの機能を備えているかのようだ。
 愛華はその美しい顔に微笑を湛え、目下に見る誠一が咳き込み、悶え苦しむ様子を、静かに堪能していた。
 子猫は今や、誠一の手作り小屋の中で、何事もなかったかのように眠っていた。

『何を潰したら、お父さんは嬉しい?』
『と、……と、父さんを――』

 とっさに出た言葉だった。
 誠一の言葉を耳にした瞬間、愛華はその表情をほころばせた。それとわからぬほどわずかに下へと首を曲げ、黒光りする鋭い瞳で彼を見下ろす。子猫が彼女の足から解放されたのは、彼の感情が解放されたこの瞬間だった。
 子猫を助けるために――それは、あながち嘘ではなかった。が、言い訳だ。誠一は決して、ただ犠牲になったわけではない。彼は、どこかで望んでいたのだ。

『じゃあ、靴、持ってくるね』

 室内だ。だが誠一は、愛華の言葉に違和感のひとつも抱かなかった。
 誠一の中に確かにあった、認めたくなかった感情、押し殺してきた感情、目を背けてきた感情、言い得ない感情。阻害していたのは、常識と、道徳的規範と――。だが、今となっては、そんな障害はどこにもない。
 具現化した誠一の渇望世界。それが今、彼の眼前に広がっていた。
 だが、
「がっ!……ぐ、あああ!」
 そこは彼が思っているほど、甘美なだけの世界ではなかった。
 誠一は蹴り上げられた顎を押さえ、床の上をのた打ち回った。
「硬いでしょ、これ」
 そう言って、愛華は自らのシューズを愛でるように撫でた。先日、母――麻美子から買ってもらったものだ。大切なもので父を喜ばせることができる。彼女にとって、おそらくこれ以上に嬉しいことはないのだろう。くすくすと、しきりに笑声を漏らす。
 這いつくばった誠一が、ようやく顔を上げた時、
「どれくらい硬いかっていうとね……」
 愛華はトンと跳ね、彼の携帯電話のヒンジ部に、両足の爪先で着地した。
 彼女の足下に、ひとつのガラクタが出来上がった。

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 愛華の口から、
「じゃあ……、どうして、嘘ついたの?」
 次に発せられた言葉が、誠一の顔を引き攣らせた。
「ねえ……」
 彼女の語調が強くなる。それに伴い、子猫の声が再び部屋に弱々しく響く。
 じわり、じわり。
 愛華は少しずつ、その足にまた力を込め始めた。誠一は意を決し、
「た、大切だったんだ!」
 本音を張り上げる。同時に、涙が目を覆った。彼女はそんな誠一の顔を覗き込みながら、
「でも、嬉しいんだよね?」
 と、今度は爪先で撫でるように、子猫を弄ぶ。
 限界だった。誠一は堪えてきた感情を解放するように、
「嬉しくない!」
 怒声を吐いた。
「その猫だって、これから名前をつけてあげようって――」
「でも、嬉しそうな顔してる」
「泣き顔だぞ!」
「うん。泣きながら喜んでる」
「だから、喜んでなんて――!」
「ほら、その顔」
「――っ?」
「蛾の時と同じ。嘘じゃなくて、お父さんが間違って思ってるだけ?」
 誠一は気付いていた。だが、気付かぬふりをしていた。認めたくなかった。
 自分が、今や愛華を完全に異性として捉えてしまっていることも、蠢く足先に魅力を感じて目が離せなくなっていることも、彼女が何かしらの凶暴性を見せる度に勃起してしまっていることも、今、目の前にいる子猫に救いたい、潰されろ、という相反する気持ちを抱いてしまっていることも。そして愛華のそれは、言葉足らずだが肯綮に中っており、実は自分の心の深淵を見抜かれてしまっているのだということも――
 それでも誠一は、愛華に、
「お父さん、嘘つきかもしれない。でも、やめてほしい。本当に」
 と、縋るように懇願した。
「愛華、頼むから……」
「私は、お父さんに喜んでほしいだけ」
「その猫は大切なんだ!」
「じゃあその大切なものを潰せば、お父さん、喜ぶんでしょ?」
「そうじゃない……、そうじゃなくて――」
 愛華は再び子猫の腹部に足を置き、じわじわと体重をかけていった。

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 愛華は足を子猫に乗せたまま佇立していた。
 誠一はようやく身体を起こし、愛華の脚前に座る。われ知らず正座の姿勢になっていた。
「私ねぇ、環境委員なの」
 愛華が無感情に言葉を響かせる。
 突飛な話題の変化に、誠一は戸惑った。彼女の意図がわからず、
「そ、そっか」
 と、当たり障りのない相槌を打つ。
「さっき、蛾、潰して、お父さん嬉しかった?」
「あ……、ああ。もちろん。ありがとう! 助かったよ。虫、苦手で」
 誠一は大げさに喜んで見せる。が、
「鉛筆の時も、あの植物の時も、嬉しかった?」
 次の言葉が、彼を迷わせた。鉛筆は、実際どうでもよかった。彼の頭にあったのは、ステレオスペルマムだ。毎日、丹念に世話してきたのだ。それを思うと、誠一の心は再び締め付けられた。だが、彼女の求める答えがそうでないことは、察するに余りある。先ほどの「嘘」という彼女の言葉も気になる。今、彼女の機嫌を損ねないためには、
「ああ。もちろん」
 是非も無かった。
 それが功を奏したのか、愛華の表情に僅かずつだが笑みが戻ってきた。瞳は光を帯び、口元が緩み、安堵したように息を吐く。
「環境委員はね、要らないものを全部片付けるの」
「…………」
 誠一の心に、にわかに不安が過る。
「今日も、虫潰して、あの子助けた」
 それは誠一の知るところだった。再会の場面としては、あまりに印象深かった。
「学校でも、みんなが喜んでくれるんだよ」
「む、虫が苦手って子、多いだろうから……」
「さっきは、蛾を潰したし、鉛筆も、植物も潰した」
「そうだな。……う、嬉しかったよ」
「うん。お父さん、どれも同じ顔してた。どの時も、同じ……。でも――」
 と、愛華の目がひときわ大きく見開かれた。
 笑顔は全く崩していない。が、その視線はあまりに鋭かった。誠一は、彼女の射抜くような瞳に圧倒される。しかしそれは同時に、全てをのみ込んでしまうような魅力をも備えており、誠一は目を逸らすどころか、まるで吸い込まれるように、彼女の瞳に釘付けにされてしまっていた。

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 誠一は震え、立つことができなかった。腰が抜けていた、とも言える。
 喪失感が、しばし彼をのみこんでいた。やがて、はね返るように、悲痛な感情がやにわに押し寄せてくる。彼は堪えるのに必死だった。愛華を止められなかった自分を責めた。大切に育ててきたのだ。それが、ほんの一瞬で……
「嬉しい?」
 幾度も聞いた愛華の素っ頓狂な言葉が、誠一の傷口に塩を塗る。彼は力なく「……嬉しいわけないだろ」とだけ返し、肩を落とす。しかし彼女は、誠一がその悲愴感に身を委ねていることすら許してはくれなかった。なぜなら、聞き覚えのある聞き慣れない声が彼の耳に入り、
「――っ!」
 ふと頭を上げた時、
「う、嘘だろ?……やめ、愛華――!」
 目に入った光景が、彼には信じられなかったから。
 声の主は、子猫だった。小さなからだのうえに、愛華の足が乗っている。
「どうして、嘘つくの?」
 誠一は弾かれたように駆け出す。が、震える足がもつれ、その場に転倒してしまう。
「愛華、やめろ!」
 誠一の目に涙が溜まる。愛華は足で子猫を捕らえたまま、
「蛾の時も、この植物の時も――」
 夢中で這って自分へと向かってくる誠一を下目に見ながら、
「お父さん、同じ顔してるのに……」
 子猫の腹部に、さらにじわりと体重をかけた。今の誠一に、愛華の言葉は届かない。ただ、一刻も早く子猫を解放することだけを考え、誠一は彼女の足元へと急いだ。
 だが、
「お父さんも、力づく?」
 愛華のその言葉が、誠一の動きを制した。彼女の足に掛けかけていた誠一の手が止まる。見れば、彼女の足の力がわずかに緩んでいるのがわかる。
「コレを、私から奪るの?」
 子猫は依然として愛華の足に捕らえられたままではあったが、先ほどまで響かせていた痛々しい呻きのような声は止んでいる。誠一は、
「ちゃ、ちゃんと聴く! 嘘は言わない! だから、やめてくれ!」
 彼女の行為を阻止しようと、必死でそう懇願した。
 愛華の瞳は、全く感情を湛えていなかった。
 誠一はそんな彼女を見上げながら、いつまでも勃起し続ける己の愚息に困惑していた。

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「嬉しい?」
 唐突な問いかけに、誠一は当惑した。
 単純に、蛾を退治したことに対してだと解してよいものなのか。あるいは――?
 自身の漲った愚息を意識し、不可解な感情に揺れる。まっすぐ見つめる愛華の笑顔の中に、不確定な裏の存在を探してしまう。目が泳ぐ。
 愛華は平然とした口調で、再度、「嬉しい?」と誠一に詰め寄った。彼女の大きな瞳が、誠一の視線を捕らえる。その美しくも妖しい輝きは、黒曜石のもつそれと似ているだろうか。その石は次第に表面を潤ませ、ひとつの感情を形成し、誠一に迫った。呼応するように、愛華の口元が、肩が、微震を始める。彼はその感情を前に、
「え……、あっ、ああ、もちろん」
 慌てて返答した。誠一の声は不自然に上擦っていたが、愛華は気にしていないようだ。満面の笑みを湛え、跳ねるように居間へと向かった。
「っ……、はああぁ」
 誠一は大きな溜息とともに、浴室の前にへたり込み、項垂れた。愛華が傍にいるだけで、足が竦んでしまっていたのだ。まだ膝が笑っている。呼吸がうまくできない。拍動が速い。原因は彼女への勘ぐりからか、慄きからか、疚しい気持ちからか、その全てからか――?
 誠一は頭を上げ、それとなく視線を横に向けた。
 先ほどの粒粉はティッシュに包まれ、今はごみ箱の中だ。
 誠一はその、蛾にとっての墓場を、ただじっと見つめていた。
 と――、
「お父さん」
 無邪気な、それでいてどこか威圧するような、相反する響きを矛盾なく宿した愛華の呼び声が聞こえた。誠一がそちらへ視線を向けると、
 ――愛華?
 彼女は、机の上に置かれた鉛筆を躊躇なく折る。そして、
「あ……な、何――」
「嬉しい?」
 同じ質問で、誠一の言葉を遮った。
 愛華はその身を翻し、窓のほうへと歩を進める。そこにはいくつかの鉢があった。ステレオスペルマム。葉が小さく、光沢がある観葉植物だ。少しずつ大きくなり、これから生長期に入る。彼はそれを楽しみに、毎日欠かさず手入れをしてきたのだ。彼女は再度、誠一の表情を窺った。口元が震え、青ざめている。愛華はその様子を見てから、
「まさか……、愛華? あ!……ああっ! や――」
 葉を手当たり次第にむしり取り、
「やめろ……、ああっ!……あああっ!!」
 手の中でゆっくりと、丁寧にすり潰した。

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