Black Onyx [ブラックオニキス];2008/ 10の記事一覧

ここでは、Black Onyx [ブラックオニキス]での 2008年 10月 に掲載した記事を表示しています。
 かくして男は、左手に加え、両目をも失った。当然、右手も無傷ではない。
 崩壊寸前にある今の男の頭には「希望」という文字など浮かびもしないであろう。
 男の目にはもはや、ほのかに閃き続ける人工光も届かない。ただでさえ、力の差は歴然だったのだ。目から光を失ってしまっては、女性からイヤリングを奪うことなど到底できそうもない。
 もちろん、義手・義眼など、現在の医療制度をもってすれば、男の治療は容易なことである。ただそれは、ここを生き延びられさえすれば――つまり、女性のイヤリングを奪えさえすれば、の話だが。
 男は床の上に身を横たえていた。生きていることだけはわかる。その様子はまさに、生ける屍のようだった。感情が見えない。そもそも、何かを感じているのかすらもわからない。言葉を発することもなければ、身体を動かそうとする様子もない。ただ、かすかな呼吸の音だけが、彼が生きているということの唯一の証明だった。
 今の男は、まさに死を待つ者でしかなかった。
 対する女性は男の方を見ることもなく、返り血で赤く染まった身を優雅に動かしていた。まるで、男の存在自体を忘れてしまったかのような振る舞いだ。
 特に何かをする風でもなく、そうかと言って退屈している様子でもない。
 ただ、目的が見えない。自由に地下室を歩き回っているのだ。
 時々、息を大きく吸い込んでは恍惚にも似た表情を浮かべている。血の匂いに酔い痴れているのであろうか。そんな異様な光景の中で、時間だけが流れていった。
「ねぇ」
 と、唐突に女性が口を開く。しかし、男は何の反応も示さない。
 もしかしたら男は、死の時間がようやく訪れたと思い、それを悦んでいるのかもしれない。もちろん、男の様子からはそういった感情は全く読み取れないが。しかし、女性がさらに、
「早くしてよ」
 と静かに言葉を重ねたことで、男はわずかな反応を見せた。足の指先が動く。汗が額にじわりと滲む。女性はそこでようやく男に目を向け、彼を中心に弧を描くように歩き回った。そして、
「足は動くし……まだ片手も使えるよね……」
 と、ポツリと呟く。男の呼吸が乱れる。
 やがて女性はピタリと足を止め、意味深な笑みを零す。その視線は、今や男をしっかりと捉えていた。
 男は相変わらず動きを見せない。思考力があるのかすらわからない。したがって、女性の言葉の意味するところを理解しているのかもわからない。しかし男は、確実に女性の言葉に反応している。男の耳に、女性の声が届いていることだけは明らかだった。
 女性はじっと男を見据えながら「知ってるよね?」と前置きした後で、
「鬼ごっこは、自分が捕まったら鬼になる。相手を捕まえたら、相手が鬼になる。その繰り返し」
 と、言葉を紡ぐ。男は横たわったままだ。
「つまり、この遊びに終わりはないの」
 女性の声に反応するかのように、男の呼吸がにわかに荒くなっていく。額の汗が塊となって床に落ちる。言葉はなくとも、それが彼の冷汗三斗の思いを如実に物語っていた。
「……永遠に続く。そういう遊びなんだよ」
 語りかけた女性の口元に、冷やかな笑みが浮かぶ。
 少し間を置いてから、女性は深く息を吸い込んだ。瞳に凛とした輝きが宿る。そして、強く厳しい口調で、
「立ちなさい!」
 と、言い放った。それに呼応するように、男の身体がビクッと大きく跳ねる。女性が再度、
「立て!!」
 と命令した時、男はその身体をゆっくりと持ち上げた。ふらつく足取りで、ゆらりと身をなびかせて。
 まるで、行き場がわからずに彷徨う、亡者の霊のように――

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