Black Onyx [ブラックオニキス];2008/ 10の記事一覧

ここでは、Black Onyx [ブラックオニキス]での 2008年 10月 に掲載した記事を表示しています。
 男の身体が痙攣を始める。しかしそれでも、傷だらけの両手はゆっくり床へと伸びていく。
 目尻、口元、鼻、頭部。諸所から流れる血液が、腫れ上がった男の顔を覆っていった。
 わずかに身体を持ち上げた男の両腕は、小刻みに震えている。表情を歪め、必死で両腕に力を入れている様子だった。
 女性は既に、そんな男の姿を見てすらいない。上目遣いに自分の前髪を覗き、指先で軽く梳いている。ようやく男が猫背の姿勢で立ち上がった時も、女性は視線をそちらへ向けようとはしなかった。
「ぐ、おおおあっ!」
 奮起したように声を絞り、男が再び女性に向かって突進する。女性は男に目を遣ることもなく、その体当たりをするりとかわす。苦笑し、
「それはさっきやったでしょ?」
 と、窘めるように声をかける。男は憤怒し、今度はがむしゃらにその腕を大きく振り回す。
 女性はその時になって、ようやく男を見る。そして、
「今度は、あなたが鬼になったみたいね」
 と微笑しながら、向かい来るその腕を手の甲や掌で弾いて逸らしてみせる。
「観客も悦ぶと思うよ」
「うるせーんだよ! おらああぁっ!」
 完全に頭に血が上っているのか、男からは既に言葉遣いへの配慮は見られない。女性にも、今やそれを気にしている様子は見られなかった。ただ涼しげな表情を浮かべ、男の拳を軽々とかわしている。
「やっぱり、動作も鈍いね」
「くそっ……、くそ、おおぁっ!」
「もしかして、もう息切れ?」
「……っかに……、馬鹿に、す……すんじゃねぇっ!」
「そう。じゃあちょっとだけ、力入れるね」
 言いながら女性は、男の両手首を難なく掌で捕らえる。男の動きが止まる。女性が両掌にじわじわと力を込めていくにつれて、男の顔が青ざめていく。やがて男は絶叫した。女性が両手から力を抜いた時、男は弾かれたように互いの腕を庇って蹲った。
 男に苦悶の表情が浮かぶ。いつの間にか、男の両手首は真っ赤に変色していた。
「弱々しい身体……」
 女性が男を挑発する。
 男は鼻息を荒くしながら、今度は大振りの蹴りを放つ。しかしながら、それは到底、蹴りと呼べるようなものではなかった。強いて言えば、舞踊であろうか。当然それも、女性の前では何の効果も為さなかった。彼女は「ふうっ」とため息をつくと、
「大体、闘い方がなってないよ」
 と、呆れ返ったような口調で言う。そして――
 …………突如、男の表情が恐怖の色へと変わる。次の瞬間には、再び男は宙を舞っていた。
「蹴りはこうやるの」
 と小さく呟き、女性はその足をゆっくりと地につけた。その笑いの混じった声はおそらく、吹き飛んだ彼の耳には届いていなかったことだろう。
「ぐはああぁっ!」
 男の悲鳴が、またも狭い地下室に木霊する。
 シェルターの壁に身体を叩き付けられた男は、壁をなぞるようにして、再び床へと崩れていった。

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