{
2008/10/01(水) }
この鬼ごっこに終わりはなかった。
逃げ惑う男は生まれたままの姿を晒し、後ろ手に手錠がかけられている。全身から汗と血の雨を降らせ、それが地面をひたひたと湿らせていく。表情はない。ただ静寂を打ち破る荒い息遣いだけが、時を追うごとに大きくなっていった。
淡い人工光が、ほのかに二人を照らし続けている。
両者の影は時に接近し、時に離れ、しかしいつまで経っても、二人の距離が一定の範囲を超えることはない。それは、ここが密室であるという事実からすれば、当然の摂理だった。
出口のない地下室の内部は、冷たくて硬いシェルターの壁で覆われていた。
もちろん、この部屋からも外を見ることなどできない。当然、自然の光が入ってくることもなく、唯一の光源は弱々しい人工光だけだ。部屋には物品ひとつ置かれておらず、歩みの障害になるものは何もない。ただ、とにかく狭い。仮に部屋の対角線上を一般男性が普通に歩いてみても、かかる時間はせいぜい四、五秒程度といったところだ。
そんな無機質な豪箱の中、それでも男の足は動き続けていた。
足取りは重く、時折ふらつく。倒れ込みそうになることもあれば、壁に凭れて亀のように鈍足になることもある。反対に、ふいに勢い付いたかのように速度を上げることもある。
「ほら、また追いついちゃうよ」
そう呼びかける追手の声は爽然としていた。足取りも軽い。それは、逃げる男のそれとはまるで正反対の様相を呈していた。身に着けた黒いピンヒールブーツが、コツコツと快適なリズムを刻んでいる。
男はその高い声と足音にビクッと身体を反応させる。追手には背を向け、決して目を合わせない。無言のまま乱れた呼吸音だけを発し、足を速める。
この密室でいくら足を動かしたところで、当然逃げ場はない。もちろん男の方も、それがわからないほどの馬鹿ではない。
しかし男は、決してその足を止めようとない。いや、止めることを恐れている、と言った方が、この場合は適切であろう。男は、嫌でも理解せざるを得ない法則を、既にその身にインプリンティングされているのだから。
足を止めることが何を意味するのか。どうしてそれが恐ろしいのか。
今まさに、再びその答えが男に突きつけられようとしている。
今日何度目のことかはわからない。男の体力がまたも限界を迎えたのか、その足が止まろうとしている。すぐ背後にまで迫った追手の気配を感じたのか、男の顔面はみるみるうちに蒼白になっていった。
肩を小刻みに震わせながら男がふり返る。しかし時は既に遅く、男の眼前には、血塗れになった追手のブーツの尖った爪先が迫っていた――
「がはあぁぁっ!」
バキッという快音に混じり、男の獣のような絶叫が地下室内に反響した。
男の身体が宙に舞い、ドサリと床に落ちる。唇の端が切れ、そこから血液がポタポタと零れていく。それでも次の瞬間には、震える膝を持ち上げて立ち上がり、再び覚束ない足取りで遅走し始める。それが功を奏し、追手が続けて男へと繰り出した蹴りは、間一髪のところで空を切った。
壁に凭れかかるようにしながら、男はまた走り出した。
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逃げ惑う男は生まれたままの姿を晒し、後ろ手に手錠がかけられている。全身から汗と血の雨を降らせ、それが地面をひたひたと湿らせていく。表情はない。ただ静寂を打ち破る荒い息遣いだけが、時を追うごとに大きくなっていった。
淡い人工光が、ほのかに二人を照らし続けている。
両者の影は時に接近し、時に離れ、しかしいつまで経っても、二人の距離が一定の範囲を超えることはない。それは、ここが密室であるという事実からすれば、当然の摂理だった。
出口のない地下室の内部は、冷たくて硬いシェルターの壁で覆われていた。
もちろん、この部屋からも外を見ることなどできない。当然、自然の光が入ってくることもなく、唯一の光源は弱々しい人工光だけだ。部屋には物品ひとつ置かれておらず、歩みの障害になるものは何もない。ただ、とにかく狭い。仮に部屋の対角線上を一般男性が普通に歩いてみても、かかる時間はせいぜい四、五秒程度といったところだ。
そんな無機質な豪箱の中、それでも男の足は動き続けていた。
足取りは重く、時折ふらつく。倒れ込みそうになることもあれば、壁に凭れて亀のように鈍足になることもある。反対に、ふいに勢い付いたかのように速度を上げることもある。
「ほら、また追いついちゃうよ」
そう呼びかける追手の声は爽然としていた。足取りも軽い。それは、逃げる男のそれとはまるで正反対の様相を呈していた。身に着けた黒いピンヒールブーツが、コツコツと快適なリズムを刻んでいる。
男はその高い声と足音にビクッと身体を反応させる。追手には背を向け、決して目を合わせない。無言のまま乱れた呼吸音だけを発し、足を速める。
この密室でいくら足を動かしたところで、当然逃げ場はない。もちろん男の方も、それがわからないほどの馬鹿ではない。
しかし男は、決してその足を止めようとない。いや、止めることを恐れている、と言った方が、この場合は適切であろう。男は、嫌でも理解せざるを得ない法則を、既にその身にインプリンティングされているのだから。
足を止めることが何を意味するのか。どうしてそれが恐ろしいのか。
今まさに、再びその答えが男に突きつけられようとしている。
今日何度目のことかはわからない。男の体力がまたも限界を迎えたのか、その足が止まろうとしている。すぐ背後にまで迫った追手の気配を感じたのか、男の顔面はみるみるうちに蒼白になっていった。
肩を小刻みに震わせながら男がふり返る。しかし時は既に遅く、男の眼前には、血塗れになった追手のブーツの尖った爪先が迫っていた――
「がはあぁぁっ!」
バキッという快音に混じり、男の獣のような絶叫が地下室内に反響した。
男の身体が宙に舞い、ドサリと床に落ちる。唇の端が切れ、そこから血液がポタポタと零れていく。それでも次の瞬間には、震える膝を持ち上げて立ち上がり、再び覚束ない足取りで遅走し始める。それが功を奏し、追手が続けて男へと繰り出した蹴りは、間一髪のところで空を切った。
壁に凭れかかるようにしながら、男はまた走り出した。
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