Black Onyx [ブラックオニキス];2007/ 08の記事一覧

ここでは、Black Onyx [ブラックオニキス]での 2007年 08月 に掲載した記事を表示しています。
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 家の中に入るとすぐに、部屋のインターホンが鳴った。
 受け答えの電話口から来訪者を確かめる。若い女の声だった。
「こんばんは。研究機関から派遣されてきた者です。お話はお耳に入っていると存じますが。」
 俺は動揺した。もちろん相手が専属のサポートの人間であることは承知していた。ただ、それが女であるということは聞かされていなかったし、想像もしなかった。
 胸が高鳴る。相手がこれから自分専属の女性になると考えれば考えるほど、期待するほど馬鹿らしい数々の妄想が頭を過る。
 ――専属の人間が女……ってことは……あんなことや……こんなこと……
 呆然と立ち尽くした俺は、返事をすることも忘れていた。ただ受話器を持つ手だけが小刻みに震えていることだけを感じていた。
 返事がないことを不審に思ってか、受話器の向こうの女の声が少し小さくなる。
「あの……コピー人間の件で伺ったんですが……。松江さん……ではありませんか?」
 名前を呼びかけられ、俺はふと我に返った。そうして初めて、自分が異様に長い時間黙り込んでいたのだと気付く。
 自嘲する。こんなにも自分の頭は妄想で一杯だったのかと呆れる思いだった。
 受話器に口を当てて声を出すためには、できる限り自分の緊張が相手に伝わらないよう努力して平静を装う必要があった。
「はい。伺っています。お待ちしていました。今開けますので、少しお待ちを。」
 扉を開錠しても、俺の胸はますます大きく高鳴っていくばかりだった。
 ――誰だって程度の差こそあれ、異性が部屋に来る時には緊張するものだろう。
 そう言い訳をしながら、俺は自分をできるだけ落ち着かせるように努めていた。
 女が玄関口を開けて俺に顔を見せるまでの時間が、とても長く思えた。


 ――!!――

 その衝撃は、俺に呼吸をすることすら忘れさせた。
 女は俺の前に姿を現すと同時に、俺の腹に強烈なボディブローを見舞った。捻りを加えた女の拳は鳩尾に深く喰い込み、俺の内臓を的確に捉えているようだった。
「うっ……ぐ……」
 次の瞬間、俺は意識を失った。
 倒れる直前、薄ら笑いを浮かべたその女の紅い唇だけが、俺の霞んだ目の端に映った。

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 朝。まだ夜も明けきらない頃、俺はふと目覚めた。
 部屋の窓から見える高層ビルの合間から、白い光が少しずつ射しこんでくるのをぼんやりと眺める。
 長い間実験室で眠り続けていた俺にとって、こうして部屋で朝を迎えるのは久しぶりのことだった。
 時計の針は午前四時三十分を回ったばかりだった。寝ぼけ眼のまま洗面台へ向かい、顔を洗う。
 鏡に映った自分をじっと見つめてみると、今更になって、この世界に既に自分と同じ人間がもう一人いるという現実を疑いそうになる。先例がないのだから当然と言えば当然のことだろうが。
 ――でも俺は、確かにこの目で見たんだ。
 あらためてそう自分の疑いを訂正すると、同時に少しずつ自分が自分でないような気がしてきて心地が悪かった。
 再び勢いよく顔を洗い、もう一度鏡を覗き込む。
 ――そうだよ。何も憂うことはない。それどころか、このことによって俺にはさらに素晴らしい生活が保証されたんだ。喜んで然るべき。俺は俺だ。
 気持ちが次第に落ち着いてくるのが分かる。しかし自分のコピーの存在を全て忘れ、頭の中から消し去ってしまうことだけは、どうしてもできなかった。
 あいつはどこで生活していくのだろう。あいつは俺であり、俺でない存在。あいつの記憶の中には当然この家のこともあるだろう。
 ――まさか記憶を頼りにこの家に戻ってきてばったり鉢合わせなんてことないだろうな。
 脳裏をかすめた想像に苦笑する。
 奴に会わないことが条件とされている限り、そんな心配は杞憂にすぎないのだ。その辺りは所長か誰かがきちんと説明をするに違いない。それに、この家とも今日限りでおさらばだ。
 夜明けの心地よい空気を胸一杯に吸い込む。俺はモヤモヤとした気持ちをぶつけるように、部屋の隅に置いた口の開いたダンボールの山に生活用品の数々を投げ入れていった。
 電気をつけていない部屋は既に昇った日の光で満たされていた。


 引越しの準備を整え、これまで暮らしていた部屋を後にする頃にはもう日が傾き始めていた。
 研究機関から用意されているという新しい家までの地図を片手に、俺は期待を膨らませていた。
 所長の話によれば、今後の生活には研究機関から派遣される専属のサポートの人間もつくらしい。俺の健康などを管理し、心理面や肉体面、その他いろいろなトラブルにも対応してくれる。もちろんそれに掛かる費用は全て機関の負担だ。こんなにおいしい話はない。

 新居に着いたときには、その期待が全く裏切られなかったことを喜んだ。いや、そこはむしろ俺が考えていたものより格段にすばらしい豪邸だったのだ。これからここに住むことを思うと、俺の顔は自然と綻ぶのだった。
 セキュリティの施された大門を開錠し、庭へと足を踏み入れる。
 美しい緑で埋め尽くされたその庭に漂う仄かな甘い香りと涼やかな虫の声が、俺を温かく招き入れてくれているようだった。

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 最初は、鏡を見ているのではないかと思った。
 顔、体型、手足の形まで寸分違わぬ自分が、目の前にいた。
 それは大きく聳え立った大型カプセルに入れられていて、ゆっくりと呼吸を繰り返していた。
「同じなのは見かけだけではありませんよ。」
 いつの間にか隣に立っていた所長が、さも得意気な面持ちで俺に語りかけた。
「考え方や行動パターン、素質や才能、それに環境によって培われた能力や知識までもが完璧にコピーされているのです。」
 クローン人間が世界的に正式な合法となってから早数年。
 当時は生命誕生への冒涜であるとか、クローン人間への差別が生じるなどといった数々の問題から闇に葬られてきていたこの研究も、今では医学の大きな進歩と発展を世に知らしめている。
 その裏で、クローンのさらなる完全化の研究が進んでいたことは俺もネットを通じて知っていた。
 もちろん、まさか自分がその研究材料の当事者になることになるとは夢にも思わなかったが。
「人類初のコピー人間がこの日本で生まれたことは、必ず後世の歴史に残るだろう。この研究によって人類はまた一歩、神に近付いたと言えるのだ。」
 所長はまたも得意気な表情を浮かべ、カプセルの中をまじまじと見つめるのだった。
 当時騒がれた不完全なクローンという存在と完全に区別するためか、彼らは『それ』をクローン人間とは呼ばなかった。
 定期的な振動音を鳴らし続けていたカプセルが、一際大きな音を立てた。
 そろそろ『彼』もこちらの世界へやってくるだろう。そこから先はお互いに別々の道を歩むことを約束させられている。
 当事者同士の利害関係による争いや、混乱を招かないようにという研究機関の方針らしい。
 まあ、自分と同じ人間に興味がわかないことはないが、仮にもしそれから先、自分が自分のクローンと一緒に行動を共にすると考えるとあまりいい気分はしない。
 この方針は、そうしたことに対する配慮なのだろうと思う。
 今後の生活は、俺もコピー人間の方も全く別々の場所で営んでいかねばならない。もちろん研究機関の全面的な援助を受けながらだ。今後は生涯不自由のない生活が約束されている。こんなに美味しい話は他にないと思った。
 両親を早くに失い、兄弟も親類もなし。就職先はまだ決まっておらず、現在就職活動中。そんな自分が研究材料に適任だと言われた時は正直驚いた。しかし今になって思えば、それは全て理に適った納得できるものであった。
 ――これからはお互いに別々の人生を歩んでいくんだな。少しの間だけでも会えて嬉しかったよ。元気でやれよ、もう一人の俺。
 俺は別室へと移動させられる。
 扉を閉めると間もなく、部屋の中からカプセルの開く大きな音が鳴り響いてきた。
 それはまるで人類の発展を告げる鐘のように、清々しく俺の耳に入ってきていた。

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人が何かしらの意志をもって行動する時、そこには必ずその目的が存在します。
しかしそれは時として、その行為によって薄れてしまったり、暈されてしまったり。
優美子のように、行為自体が目的とすり替わってしまうことも、決して珍しいケースではないと思います。
それが、新たなる物語へとつながっていくとは思いもせず……

「放課後の夕暮れ」の外伝です。
今回竜崎は割を食いましたね。突っ走り男の扱いです(笑) 逆に株をあげたのは、信二でしょうか。
優美子がなぜ信二をパートナーに選んだのか、それまでの補足をしたいと考えました。

竜崎と信二のすれ違い。
優美子と信二の恋愛関係。
優美子の姉に対する思いと、それを逸脱した行為。
そうさせた何か。
たまたま優美子の行為を目撃した『あの男』。
それぞれに交錯する人間模様や心情を楽しんでいただけたなら幸いです。

今回もまた、ご愛読いただいた方々に感謝申し上げます。
よりよい作品づくりを目指してこれからもますます精進していきたいと思っています。
今後とも、応援よろしくお願いいたします。
また、ご意見やご感想などもお気軽にコメント欄に下さると嬉しいです。

●優美子のキャラ絵 →    
●優美子の台詞ボイス →

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 ここでの一部始終を見終えた僕は、開いた口が塞がらなかった。
 呼吸困難に陥るほどの衝撃を受けていた。その反面で、僕はまた下半身を大きく膨らませていた。
 事の最中に何度もズボンの中から射精した。そのため、僕のズボンは精液でベトベトに汚れていた。
 そこで感じたリアルな恐怖。それは僕が心底望んでいたものであった。いざその光景を目の当たりにした時、僕はとても言葉では表現できないほどの恐怖と感動を同時に受け、軽いパニックになっていた。
 いつの頃からか僕を悩ませ始めた病気は、やっぱりここでも発現していた。
 妄想M男がリアルな責めを間接的に体感した瞬間だった。
 女から男に向けられるあくまで動物的な、野生的な本能。
 ――暴力、破壊……
 そのものの集大成を僕は目の当たりにした。その喜びをどう表現したらいいのだろう。
 ここにあるのは、紛れもない現実であった。
 これは偶然なのだろうか……。これを僕への祝福の品だと受け止めるのはやはり慢心なのだろうか。
 ――あの子は……僕の女神だ。
 興奮冷めやらないまま、僕はもう一度その女神をしっかりと目に焼き付けておこうと、暗闇の中でじっと目を凝らした。
 ふと気付けば、この暗闇がとても深いものであることが分かる。それが分からないほど、さっきまでの光景は僕を魅了していたのだ。

 ――え?……

 しかし彼女は既にさっきまでの位置にはいなかった。ただ、だからと言って一生懸命彼女の姿を探す必要もないところへ移動していることが、すぐに分かった。
 だって彼女が移動したのは……僕の目の前だったのだから……

「ふふ、少しは楽しめた?」
 彼女は冷酷な笑みを浮かべてそこに立っていた。
 突然の状況に僕が出来たのは……
「あ、いえ。あ、あはははははは……」
 空笑いをすることだけ……

 現実というものは恐ろしい。明日の運命なんて……いや、一秒先の未来でさえ、誰にも分からない。
 今のこの瞬間までは、妄想を楽しむだけだった。しかしまさにこの瞬間、その妄想はリアルへと変わろうとしている。……他でもない自分へと向けられた攻撃の意志……
 次に視界に入ったのは、今まさに僕の腹に突き刺さらんとする彼女の膝だった。
 僕のM的妄想症候群も、これで終局を迎えるのだろうか……



END

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 遠くからバイクの音が徐々に近付いて来るのが分かった。
 それは私たちの目の前で止まった。乗ってきた人物がフルフェイスを両手で頭から取る。
 信二だった。
 彼はこの光景を目の当たりにすると、ここで私が行ったことを全て理解したように見えた。
 目の前の男は必死になって信二に助けを乞おうとしていた。
 私が再び手を放すと男は膝から崩れ落ちた。私は信二に縋ろうとする男の背中を足で押さえ込む。
「間に合わなかったか……?」
 信二の声が聞こえる。
「やっぱり来てくれたんだね。」
 私はそれだけを言うと、男の背中をぐりぐりと踏み躙った。男が絶叫する。
「三人ともまだ辛うじて生かしてあるよ。とことん苦しめて殺したいからね。」
 私は真剣だったが、その声は興奮からか幾分高ぶっていた。その私の言葉に信二は多少の安堵の表情を浮かべた。それからまた真剣な面持ちになると、私に諭すように話し始めた。
「優美子。俺はお前が好きだ。愛してる。」
 突然の告白に胸を打たれる。信二が話を続ける。
「俺は永遠に、お前の味方だ。だからよく聞いてくれ。」
 私は黙って耳を傾けた。呼吸を少し整えてから信二は提案した。
「こいつらを殺しちゃいけない。警察沙汰にならないようにするんだ。いいか。こいつらを飼うんだ。」
 信二の突拍子もない提案に、私はしばし言葉を発することができなかった。しかし彼の表情は真剣そのものだった。
「こいつらを奴隷にして、毎日拷問するんだよ。簡単に殺してしまうより、長期に渡ってその罪深さを思い知らせた方がいい。」
 確かにそれは一理あると思った。『毎日拷問』という言葉に私の感情はさらに高揚する。
「このまま、終わりにしてしまっていいのか? 京香は、それだけで満足するか?」
 ……虚をつかれた。私はこの時になって初めて、いつの間にか自分が本来の目的を忘れていたことに気付かされた。
 ――姉さん……。そっか。私、復讐に来たんだよね。いつからこんな風に?…どうして私は?……
「お前は、こいつらに己の罪深さを認めさせて、償わせるべきだ。きっとそれが……優美子にとって為すべき正義……」
 ――正義……正義……。そうだ。私の復讐はまだまだ終わりじゃない。姉さんの無念は、こんな生温いものでは決して晴らすことができない。
 自分の頭が整理されていく。それを感じると同時に、私は信二への尊敬の念をさらに強くしていた。しかし、その提案に乗ったところで、姉の仇をいつまでも生かしておける自信もなかった。
 何しろ私は……既に、敵を痛めつけることに快楽を覚えてしまった女……
 その気持ちを汲んだように、彼はにやりと一つ笑みを零しながら続ける。
「楽しむのも悪くないと思うぜ。そんなお前も魅力的だ。なに、これから先、もし警察沙汰になるようなことがあれば、俺が全てを被って自主してやるさ。誰が何と言おうが、お前は正義の裁きを下してるんだ。自信をもてよな。」
 彼の言葉に、胸の奥がすっと落ち着いてくるのを感じた。その包容力に私は心を奪われていた。
 ――信二……
 そこまで言うと信二は、持ってきたバットで倒れた男の頭を殴りつけた。
「そう。これは俺が全部やったことなんだよ。」
 男は意識を失った。私は思わず、信二の胸に頭を埋めていた。

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 転がった二人の男の血で、辺りは赤く染まっていた。
 暗闇でその血溜まりが見えないことが残念だった。それを見ることで、私の復讐の成果を実感したかったからだ。
 怯えきった表情の男に笑顔でゆっくりと顔を近付けていく。男がさらに身を小さく固める。
 ――そうだったんだ。やっぱり、そうだったんだ……
 自分のことは自分が一番よく知っているという言葉は今まで何度も聞いたことがあった。しかしそれは間違いだ。私は今こうして、あらためて新しい自分自身を再発見しているのだから。
 じわじわと相手を追い詰める感覚。抵抗できない相手を威圧しながら迫る喜び。この行為が姉の復讐という大義名分の下、正義という免罪符を翳して堂々と行えるものであるという優越感。
 私はこの時確かに、加虐性欲に目覚めていたのだ。
「ふふ。覚悟はいいね。お馬鹿さん……」
「ひ……は……あああ……」
 男が示す恐怖心は、もはや私の性欲を掻き立てるもの以外の何者でもなかった。
 そして相手の顔が恐怖に歪むほど、自分の表情が涼やかになっていくのを感じた。
 髪を掴んで男を持ち上げ、目線の高さを合わせる。そのまま木を背にさせる。私は膝を大きく後ろに引いた。

 ……!!!……

 静寂に囲まれた公園内に激しく鈍い音がこだまする。
 私の膝が男の内臓の感触をしっかりと受け止める。内部を破壊するその瞬間を肌で感じる。
 無抵抗のままで膝を突き刺された男は眼球が飛び出すほどに目を見開き、内部から込み上げる嘔吐感を表情に表していた。
 酸素を求めてか、内部から今にも何かを押し出したいという身体の反応からか、男は舌をだらりと垂らしながら、しきりに口を金魚のようにパクパクと動かしていた。
 膝を抜くと、まるで破裂した下水管から水が溢れるように、勢いよく口から血を吐き出した。
「肝臓……だよ。その血の源流はね。」
 あまりに冷静な言葉が口をついて出る。私はその行為と男の反応に、言いようもないエクスタシーを感じていた。
 男は身体中の力が抜け、手を放すと腹を抱えて地面に突っ伏し、うつ伏せになって吐血を繰り返した。
 その腹に焦点を絞り、さらに何度も爪先で蹴り上げる。じわじわと……まるで自分がネズミを弄ぶ猫になったような気分だった。
「うえぇぇ……お、ごほっ……ぐが……げほおお……」
 男の苦悶の声がこんなにも耳に心地よいということを初めて知った。
 私は興奮を抑えきれず、再度男の髪を掴んで無理矢理立たせると、また膝をその腹に突き刺すのだった。

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 男は再び勢いよく吐血し、ピクリとも動かなくなった。
 私は苦悶する男の表情を胸に刻んでおきたいと思い、その拳をしばらく抜かなかった。
 目を大きく見開き、口をだらしなく開いたその顔を見つめながら、私は笑った。
 ――地獄の味は、どう?
 見るともう一人の倒れた男も、その様子を見て失禁していた。
「上からも下からもいろいろなものを出して……。本当に汚いね……」
 私はその情けない男の姿にほとほと呆れてきていた。男の表情は土と吐瀉物にまみれ、とても読み取ることは出来なかった。
「お前にお似合いだよ、その顔。醜くて、汚くて……お前そのものだね。」
 男は悶えながら必死で私に何かを訴えているようだった。もちろん私にはそれを聞き取ろうという気持ちなど微塵もなかった。
 例によって残った男は身を縮こめたまま、何やらうわ言をぶつぶつと呟き始めた。
 私は悶え苦しむ男の前に立つ。足元に転がる男を見下ろし、笑みを零していた。
 ――もっともっと苦しめてあげるからね……
 転がっている男はそんな私を見ると、一目で分かるほど顔面蒼白になった。吐瀉物の間から覗く瞳から、男がすっかり怖気づいてしまっていることが分かる。
 ――せっかくの復讐劇なんだから、もっと抵抗してくれた方が面白いのにな……
 そんなことを考える。
 私は靴底でゆっくりと男の腹を踏みつけた。男は痛みからか恐怖からか激しく絶叫する。
「このまま潰しちゃおっか。中身……」
 私は無表情で男に語りかけると、返事も聞かずに徐々に踏みつける力を強めていった。
「お……ご……がはっ……」
 男の叫びは次第に声にならなくなる。全体重を乗せた頃には、男は顔を真っ赤にしていた。
 少しして踏みつける力を弱める。男は同時に、一気に息と血液を吐き出し、咳き込む。
 また体重をかける。しばらくしてまた力を弱める。繰り返す。
 男は次第に反応すらしなくなった。私が踏みつける度に血を吐き出す人形のようになっていた。


 血の海に沈んだ無様な二人の男から視線を外し、残った男を見る。彼もまた失禁していた。
「ふふ。後はお前だけね。どうやって苦しみたい?」
 男はその言葉に敏感に反応し、弱々しく許しを乞う。本当に面白い姿だ。
 ――あれ? ひょっとして……私……
 足を後ろに振り上げ、爪先をへたり込んだその男の腹に寸止めする。
「ひ……ひぃぃぃ……」
 怯える男の様子を見る。私はその瞬間、自分が恐ろしいほどの興奮状態にあることを初めて自覚した。
 ――これって……
 笑みを浮かべながら男に寸止めを繰り返す。その度にいちいち反応する男の姿を見ながら、私は確かに性的な興奮を覚えていた。その快感は、既に私の中の正義をも凌駕していた。

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 あまりに力ない、無様な格好が滑稽で仕方がなかった。
 吐血して倒れた男二人と私の顔を交互に見ながら、残った男はただただ震えている。
「残りはお前だけね。どうやって苦しみたい?」
 自然と口元が弓なりに曲がるのを感じる。恐怖で足が竦んで動けないでいる男の表情がとても心地よかった。
「…あ……うぅ……あ……」
 ――私たちはこんなやつらに……こんな弱虫たちに……
 心の中で渦巻く憎しみの感情は燃え上がるばかりだった。それが嘲笑という形で表出する。
 ――私はお前たちを、絶対に許さない。
 いつの間にか私は大声を上げて笑っていた。残った男は私の声に敏感に反応し、跳び上がって驚いた。
 目の前の微小な男とあの時私たちにあれほどの恐怖を与えた男の人物像が一致せず、私は別のものを相手にしているような錯覚さえ覚える。
 私と男の間には二つの肉体がそれぞれにごろごろと転がり、汚いものを吐き出しながら悶えている。
 私は残った男から瞳を逸らさないまま、さらに二人を何度も蹴り上げた。
 爪先で腹に加えて鼻や肩、腕、睾丸や膝、いたるところを責めて弄んだ。男たちは既に声を出すこともできず、青白い顔でただそれを受け続けることしかできなかった。
「情けない格好……簡単には殺さないからね……」
 身体中の血が一気に冷たくなっていくのが分かる。一瞬で死なれては姉の無念を晴らすことができない。
 そう……簡単には殺さない。十分苦しむことができるように、ちゃんと致命傷は避けているのだ。
 ――まだまだ苦しめてあげる……私の姉さんが、そうだったように……
 そして私はまた二人の男たちの腹を交互に蹴り上げ続けた。
 残った男はその様子を見ながらとうとう失禁し、腰を抜かしてしまった。本当に情けない奴。そして、皮肉にも相手がそんな弱々しい様子を見せれば見せるほど、私の意識はだんだんと残酷な方へ傾いていくのだった。
「ねえ。肝臓と腎臓って、壊れるとどっちが苦しいと思う?」
 残った男に問いかける。
「ひ……ひぃ……」
「まずはこの男からね。どっちを壊してほしい? お前に選ばせてあげる。」
「ひいぃぃ……」
 まるで会話が成立しない。男の様子があまりにも可笑しくて、私はさらに大きな声で笑った。
「ほら……どうしたの……言わないなら、お前の肝臓と腎臓……今両方とも壊すよ……」
 びくっと男の身体が大きく反応する。泣きながら命乞いを始めた。
「ご……ごめんなさい……ごべんだざい……ごべ……」
「質問に答えてないね。もしかして怒らせたいのかな。」
 努めて優しく問いかけたことが、却って彼の恐怖心を煽ったようだった。男の震えはさらに激しくなる。
 そんな男の姿を見ながら、私は倒れている男の胃に容赦なく拳を振り下ろした。
 胃が潰れる感触が手に伝わってくる。
 拳を突き刺したまま残った男を見る。男はまるで子どものような声でめそめそと泣いていた。

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「身体を使った会話? ふふ…願ってもないことね。覚悟はできてるんでしょうね?」
 気丈ににじり寄る女子高生。しばし辺りを包み込む静寂。肌にビリビリと感じる殺意、憎悪。その様子に怯み、たじろぐ男たち。彼女の凍てつくような視線は彼らを完全に射抜いていた。

 草むらに身を潜めながら、僕は固まっていた。
 それは、目の前で繰り広げられた光景が、あまりにも異様なものだったから。
 三人の男と、一人の女子高生。勝負は簡単につくと思っていたのに…。
 ふっと状態を逸らす女子高生とそれに覆い被さるように豪腕を振るう男。彼女の膝がかすかに動く。
 その次の瞬間、男の身体がくの字になったかと思うとその場にふわりと浮き上がった。まるで時間が止まったかのような錯覚。
 彼女の膝が巨体を一気に持ち上げていたのだ。そのスピードがあまりに速すぎたため、僕は何が起こったのか俄かには理解できなかった。
 無様な男の姿が目に映った。男は眼球が飛び出すほど目を大きく見開き、腹を抱えて蹲った。地面に身体を転がしながら激しく悶絶している。口からは絶えず吐瀉物を搾り出していた。
「ぐお…おえ…ゴボゴボ…えええっ…」
 彼女はそれから為す術を失った男の背中に足を踏み下ろし、グリグリと踏みにじる。彼女の動作は感情をもたない機械のようだった。男を見下ろしながら、無機質に踏み付ける足に力を込めている。
 男と一緒にいた二人は何が何やら分からないといった様子で、ただ呆然と立ち尽くしていた。
 彼らが怯えているのは明らかだった。その足は小刻みに震え、「あ…あ…」と時折言葉にならない声を漏らしている。そう。彼らは立ち尽くしているのではない。動けないのだ。
 たかが女子高生の放った一発の蹴りが、男一人を地面に沈めたのだ。その光景に圧倒されてしまうのは、当然と言えば当然のことだった。
「ふふ。大きいのは図体だけかな。」
「くっ…こいつ…」
 目を疑うような光景だった。それは今まで僕が見たどんな光景よりも恐ろしいものだった。
「こんのアマがぁ!!」
 さっきまで動けずにいた男のうちの一人が背後から彼女に突進する。それはまさに…追い詰められた者の必死の抵抗…
「ぐはあっ!!…ううぇっ…」
 男の身体は彼女の前でピタリと止まった。振り向いた彼女は、男の顔を下から覗き込みながらうっすらと笑みを零していた。
 そこで何が行われているのか、普通なら分からないほどの暗さだった。
 しかし、その時の僕にははっきりと見えた。女子高生の拳が深々と男の腹を抉っていたのだ。
 彼女はその拳を男の腹にめり込ませたまま、しばらくその内部を楽しんでいるかのようにも見えた。
 男は目と口を見開き、舌をだらりと垂らしていた。

 どれくらいの時間が経っただろう。一瞬かもしれないし、永遠かもしれない…
 男の身体は膝から崩れ落ち、前のめりになって倒れた。
 苦悶の声を上げながら、男は地面をのた打ち回った。二体の男はともに、まるで地上に上げられた海老のように身体を丸めたまま、それぞれが転げまわって苦しんでいた。
 その異様な光景に、僕は恐怖を感じるとともに、これ以上ないほどの興奮を覚えていた。
 彼らの口から止め処なく流れてくる血液の混じった吐瀉物だけが、この光景が現実であることをしっかりと物語っているように思えた。

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 学校で信二に聞かされた話に、俺は困惑していた。

 -----信二が彼女の復讐に行くなんて俄かには信じ難かった。-----

 しかし信二の気持ちを察すれば、それは当然のことだとも思えた。
 俺が信二の立場だったら、きっと同じように思っていたに違いないのだ。
 だから、例え信二が相手を殺めてしまうことがあったとしても、俺にも…いや、誰にも彼を咎めることはできないだろう。少なくとも、人の心を理解するものであれば…
『下手したら命を落とすことになるかもしれない。』
 信二の言葉が何度も頭をかすめる。その度に、俺は最悪の想像に取り憑かれてしまうのだった。
 信二はまるで意識などないかのように天井を見上げ、ぶつぶつと何かを呟いていた。
 終業のベルが鳴り響く。彼はほんの少しだけ俺に笑顔を向けると、真っ直ぐに出口へと向かうのだった。


 俺には既に躊躇はなかった。
 昨日の信二からの電話。言葉少なではあったが、その内容は、そうでなければいいと思う俺のわずかな期待を大きく裏切り、信二が復讐に行くという事実だけを如実に物語っていたのだ。
『後を…頼むな』
 今日は信二は学校に来ていない。
 ――信二は…復讐に行くつもりなんだ…。彼女の仇を取りに、東一丸高校へ…。
 嫌な予感が胸を過る。
 ――信二が殺される…。俺の大切な親友の恋人を強姦したクソ野郎共。そのことがどれだけ俺の腸を煮えくり返らせたことか。そんな奴らだ。きっと奴らは…今度は信二を血祭りにあげようとする…。
 想像は俺の中で大きく膨れ上がり、そのクソ野郎共に対する怒りはもはや絶頂に達していた。
 ――それは親友である俺の役目だ。俺がこの手で殺してやるよ。見ていろよ、信二。

 俺は東一丸高校へ一人で乗り込んだ。そして、校舎内の窓ガラスをひたすら割って回った。
 ――愛するものを平気で汚そうとする奴は、俺が正義の制裁を加えてやる!
「出て来い! 出て来いよ、おい! 出てきやがれー!」
 しかし俺の抵抗は本当に空しく幕を閉じた。
 結局、信二の恋人を強姦した犯人が誰か分からないまま、俺は学校関係者によって捕らえられてしまったのだから。俺は自分の無力さを心底呪った。

 俺はこの件が学校で問題となり、別の学校へ転校することになった。通常なら退学になってもおかしくないケースだったが、どうやら事を世間に大っぴらにしたくないという学校側の意思で、転校という措置になったのだという。しかしそんなことは俺にとって大した問題ではなかった。ただ、その日信二が彼女の復讐に行ったという話を聞かなかったことが一番の救いだった。
 ――これでいいんだ…これで。俺の行為は決して無駄ではなかったのだ。お前は俺のこの行為で復讐を思い留まってくれたんだよな。そう。お前には復讐なんかより、もっとするべきことがある。
 俺は、信二とその彼女の幸せだけを願っていた。正義は…きっと最後には勝つ。その信念だけが俺を支えていた。

 しかししばらくして、友人から聞かされた。信二がその後も学校に姿を現さなくなったということを。
 俺は直感した。信二は結局、復讐に行ったのだ。彼女のため、そして…おそらく俺のためにも…。
 信二の正義感の強さは、俺がよく知っていたつもりだった。だからこそ、俺は自分の愚かさを嘆かずにはいられなかった。信二の顔を思い浮かべるたびに、俺は後悔の念を強くするのだった。

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 俺の話を聞いた竜崎は目を大きく見開き、食い入るように俺の瞳を覗き込んでいた。
「それ、本気なのか。」
「あぁ。まだ実行の日は分からないんだがな。ただ、相手も相当慣れてると見ていいだろう。下手したら命を落とすことになるかもしれない。」
 竜崎はしばし絶句していた。無理もない。

 -----俺の彼女が、姉の復讐に行こうとしているんだ。-----

 しかも、それがどれほどヤバイことか、こういうことに免疫のない竜崎でも十分理解できることだったであろうから。
 授業のチャイムが鳴り響くと同時に、先生が教室へと入ってきた。俺たちは話を中断する。
 委員長の号令と先生の講義が、今はやけに無機質に聞こえた。


 優美子の身につけた力は、もはや俺の想像の域を大きく超えていた。俺が捕まえてきた獲物で、それを証明してみせた。
 ――俺にできることはここまでなのかもな…
 ふと、彼女の復讐についての思いが俺の頭をかすめる。
 もはや自分には優美子を止める力など全く無いことにあらためて気付く。彼女は必ず復讐に行くだろう。しかしそれがいつ、どこで行われるのか分からない。
 ――優美子になら、可能かもしれない。いや、確実に成功するだろう。しかしその後はどうする? 万が一、警察沙汰にでもなったら…
 俺はまた考え込んでいた。
 優美子を守り抜く。それだけがはっきりと見えた俺の目標だった。
 どんなことがあっても、誰を差し置いても、自分は永遠に優美子の味方でいようと心に強く誓ったことは忘れてはいない。
 ――前言撤回だ。俺にはまだまだできることがある。


 その日からそれとなく優美子に復讐についての話をもちかけた。
 しかし優美子はその話題になると決まって話をあからさまに逸らした。それでも俺はめげずに彼女から少しずつ情報を得ていった。
 何とかその実行日を聞き出した時には、既にその前日になっていることを、この時俺は初めて知った。
 そしてこの瞬間、俺は自分がこれまでどおり普通に学校に通うことはもうできないと直感していた。
 ――とりあえず、連絡だけはしておくか…
 俺は竜崎に電話をかけた。
 「後を…頼むな」とだけ言うと、一方的に電話を切った。

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 一つだけ、俺の心に覆い被さる不安があった。彼女の復讐についてだ。
 彼女の心の闇は一層大きくなっていく。
 消えることのない怒りや悲しみ、憎しみは彼女を覆い尽くし、時々それが発現した。
 優美子の負った心の病は未だ癒えることはなく、常に彼女の中に潜んでいるのだ。
 それに対して自分がどう力になってやればよいのか、俺には分からなかった。
 そんな時に頭を過ったのが、あの男だった。無鉄砲で、クールを装いながらも内面は激情的な正直者。
 ――あいつなら…一体どうするのだろうか…
 頼りにしているわけではない。何かをしてほしいと思ったわけでもない。ただ、吐き出し口が欲しかっただけなのだろう。俺の行動によって、何かが変わるかもしれない…
 ――やっぱり、あいつに話してみよう。こうやって一人で悩んでいても、何も始まらない。
 俺は友人である竜崎に、彼女がレイプされた事実を話そうと、心に決めた。


「なんて奴らだよ。そんなこと、絶対に許されない。」
 竜崎は怒号した。この激情的な性格は、正直俺とは正反対で興味深いものだった。
 人間は自分とは違うものを排除しようとする性質がある反面、違うからこそその価値観の違いに興味をもち、より相手の考えを知りたいとも思える性質もまた持ち合わせているのだろう。
 そんな意味でも、竜崎の反応は俺にとって新鮮で面白いものだった。
「竜崎。正義って、何だろうな。」
 激高していた竜崎は一瞬口ごもる。唐突な質問に虚をつかれたようだった。しかし竜崎はそれでも怒りを隠すことなく、自分の感情を俺にぶつけてきた。
「正義ってのはな。真っ直ぐ生きていくってことなんだよ。そいつらのやったことは、間違いなく悪だ。悪だ! 少なくとも俺はそいつらのこと、絶対許さねえ。」
 思ったとおりの反応だ。短絡的で直情的な…。でも…
 ――他人の彼女のことでここまで怒ってくれるこいつは、もっと尊敬しなくてはいけないのかもな。
 自省する。俺はその日あったことの一部始終を竜崎に話すことにした。

 全てを聞いた竜崎はもはや怒りに身体をぶるぶると震わせていた。
「で、そいつらは確かに東一丸高校だと言ったわけだな。」
「いや…それは何とも言えないかな。彼女もあの時はショックで精神状態が正常じゃなかっただろうからな。」
「はっ。まぁ、それはいずれ分かることだ。実力行使あるのみだな。」
「そのことなんだが…。実はな…奴らに復讐しようとしてるんだよ。それが正義だと信じてるから。」

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 俄かには信じ難い内容ではあった。
 …人体解剖学…。人体の器官や組織を研究する学問といったところだろうか。
『信二。私、復讐する。あいつらに…地獄を味わわせて、姉さんの無念を晴らす。』
 優美子の決意を耳にした今、その気持ちを疑う気も否定する気も一切ない。しかし彼女にはおそらく格闘の実戦経験がない。研究の成果がうまくいくという保証もない。それに…優美子にとってそれが最善の方法なのか。姉の京香がもしこの場にいたなら、そんなことを望むだろうか。
 幾重にも重なる不安と葛藤の渦が俺を飲み込み、頭が混乱してくる。
 バイクに跨り、夜の街を疾走する。
 ――俺は一体、どうしたらいい? どうしたら彼女の力になれるのだろうか…
 春の夜風が肌を優しく撫でていった。混乱する頭を冷やすように、俺はその春風に身を委ねていた。


 優美子と出会ったのは、まだお互い中学生の時だった。
 一見気が強く、どこか冷たい感じを漂わす反面、内面は素直で優しい女だった。
 あの事件を境に、優美子がこれほどまでに変わってしまうとは夢にも思わなかった。いや、本当のところ優美子自身は何も変わってはいないのかもしれない。
 自分の正義を信じて突き進む魂の気高さ、目標に向かって努力する姿勢は、優美子のもつ最大の美徳だった。それは変わらない。
 ただその目標の焦点があの事件をきっかけに変わってしまった。それだけのこと。
 その目標が例えどんなものであっても、俺は最後まで彼女の味方でいたいと思っていた。
 そう。例え親や親戚、友人を敵に回してでも、俺は優美子に心から寄り添っていたいと願った。
 その気持ちに嘘はない。


 夕暮れの街角を過ぎていく。
 運命の出会いというのは人が想像しているほどロマンティックではないということを、俺はこの時初めて知った。それは時に残酷で…非情で…
 きっかけは馬鹿らしいものだ。すれ違いざまに肩がぶつかった…ただそれだけのこと…
 因縁をつけてくる不良。「殺すぞ」などと軽々しい口を叩く屑野郎。
 この時、俺の中の何かが完全にふっ切れたのだ。
 気付くと俺は、ヘルメットで殴っていた。
 何度も…何度も…何度も…何度も…
 相手が許しを乞うたところでやめる必要はない。俺はさらに強く、強く、殴り続けた。
 ――こいつは今日から…優美子の実験体だ…
 俺が彼女にしてやれること。彼女の力になれること。こんなに簡単なことだったんだ。
 ――優美子のことが大好きだ。心から愛している。俺が…力になってやる。
 その思いが俺を後から後から支え続けた。
 随分と思い悩んでいたことがまるで嘘であるかのように、俺の心は清々しかった。

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 姉の葬式のゴタゴタが終わった後、私は悲しさを紛らわせるように、医学書を見た。
 いえ。それはきっと、医学書を見ることが、姉と会話する唯一の手段であると感じていたから。そして、それがあの男たちへの復讐にきっとつながると信じていたから。
 ――姉が熱心に人体について研究していたのは、きっとこの時のためなのだ。
 そう何度自分に言い聞かせただろう。それでも時々、これが姉の望んでいたことなのか不安になることがあった。そんな時は、いつも医学書を通じて姉に語りかけるのだ。
 ――姉さん。これで…いいんだよね…
 側で姉が笑ってくれているように感じた。私は、間違っていない。私は、正義…
 私にとっての『医学書』は、既に立場を一変していた。
 それまでは、受験の勉強をより深める程度のものだったのに、今や人体破壊実践のための知識として必死に研究すべきものへと変わっていた。

 それから私は研究を続けた。小さい頃から医者を目指す姉の側に私はいた。
 医学書の類は姉が読むのを横からちょこちょこと盗み見る程度ではあったが、私は確かにその医学書を通じて姉の存在そのものを肌で感じていたのだ。
 こうしてあらためて見てみると数々の専門用語に眩暈がしそうになる。
 訳の分からないドイツ語?の羅列に発狂しそうにもなる。
 しかし私はそれでもやらなければならなかったのだ。だってそれが、姉の残した遺言であると感じていたから…。あの日から復讐することをこの胸に何度も刻み付けてきたのだから…。

 私の中の『正義』がじくりと疼いた。



 喫茶店で注文した紅茶に手をつけた頃、ようやく信二が姿を現した。
「…よう。元気か?」
 信二が声をかけてきた。気さくな表情で私に声をかける。
「髪、下ろしたんだな。」
 信二のさりげない言葉が今は心底心地がよかった。私の頭を優しく撫でる。
 これまでポニーテールにしていた髪を、今は結わずにさらりと下ろしていた。
「うん。特に理由はないんだけどね…。って…ううん。やっぱり信二には本当のこと言うね。」
 二人で押し黙る。沈黙がしばし辺りを包み込む。
「あいつらが…いつも夢に出てくるの。鳥肌が立つくらい気持ち悪い表情で…目の前で…汚いものを見せながら…。絶対に、忘れられない…許さない…」
 信二はそんな私の肩をそっと抱いた。
「これからは俺がお前を守ってやる。ずっと、ずっとな。」
 温かかった。信二の手が私の頭を優しく撫でる度に、私の胸が大きく高鳴る。こんな経験は生まれて初めてだった。
「姉さんとね。同じ髪型にしたんだ。せめて、私があの人を忘れることがないように、そして…」
 そこで言葉を区切る。私は決意を噛み締めるように言葉を続けた。
「あいつらのことを、決して忘れることがないように…」

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 私の汚された身体を、いつの間にか激しい雨が洗い流してくれていた。
 気が付いた時には既に男たちの姿はなかった。その代わり、よく知った顔がそこにはあった。
 短めの髪に、精悍で整った顔つき。しなやかで鍛えられた身体に白いシャツが貼り付いていた。
 一瞬にして心を解きほぐす温かい…本当に温かい大きな手。肌の感触。優しい瞳。
 彼の腕の中に抱かれながら、私は大声で泣いた。泣いた。涙が自分の身体中の汚れを、そして深く切りつけられた痛みを全て流してくれるような気がして。とにかく泣き続けた。
「ごめんな。遅くなって…本当にごめんな。」
 彼の胸がこんなに大きく、逞しく見えたことはなかった。
「遅かったよ、信二。本当に…本当に…遅かったよー!!」
 私はその言葉とは裏腹に、彼の腕の中でこの恐怖から解放された安堵感を得ていった。しかしそれと同時に、言いようもない罪悪感が芽を出し、私を再び萎縮させるのだった。
 私は…汚された…。私は…私は…
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。」
 謝罪の言葉が口をついて出る。何度も、何度も、何度も。涙が止まらない。
 彼は、そんな私の身体をさらに強く抱きしめた。
「俺はいつでも、お前の側にいるからな。」
 その言葉は、この時私の側にいられなかった彼の後悔と懺悔であるように思えた。
 私を抱く手が震えている。雨の冷たさなど忘れさせてくれるその手のぬくもりが、私は好きだった。
 彼の深さを実感していくにつれて、私は心から安心できた。安心して、そのまま眠りについた。


 私は震えていた。
 そして自分が書斎にいることを確認し、大きく安堵の息を吐き出した。
 回想するだけで、あの時の感情がまざまざと蘇ってくる。
『やめて…やめて…ください。ごめんなさい。ごめんなさい…許してください…』
 ――またあの日のフラッシュバック…
 あの時の姉の声は未だ薄れることなく、鮮明に脳裏に焼きついている。
「姉さん…」
 ぽつりと呟く。
 それが決して自分への慰めや癒しになるものではないことはよく分かっていた。
『俺はいつでも、お前の側にいるからな。』
 彼の言葉が脳裏に蘇る。あの時の彼の言葉が、どれほど私を勇気づけてくれたことか。
 期待していた以上の言葉を思い出し、私はまた涙を堪えることができなくなる。
 その気持ちをはぐらかすかのように私は再度、医学書のページをめくるのだった。

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 あの日の恐怖と怒りは、決して忘れられない。
 私の愛する姉を殺した連中の顔は、今でも目に焼きついている。


「やめて…もう…これ以上…」
 悲鳴、絶叫、嗚咽…。そこには悪夢の全てがあった。
 ナイフを突きつけられ、為す術もなく。私の目の前で蹂躙され、グチャグチャにされた。
 私自身もまた境遇は同じだった。でも、発狂し続ける姉を前に私は努めて冷静でいる必要があった。
 あいつらの汚らしいモノが頭から離れない。何も出来ない自分が心底腹立たしかった。
 ぼろ屑のようになった肢体。それでも姉は抵抗を続けていた。
「うっ……はぁ…はぁ…はぁ…」
 私たちを襲った三人の男は、それぞれ私と姉に交代で精液を注ぎ込んだ。
 男たちは精力を放出しきり、荒い息遣いのまま私たちを見下ろしていた。
 残されていたのは、抜け殻のようになった私と…既にピクリとも動かなくなっていた姉だった。
 ――汚された…。汚されてしまった…。姉さんは…え?…
「悪く思うなよ。ちょっと抵抗が激しかったからな。仕方なかったんだよ。」
 派手な柄のシャツを着た男が薄気味悪い笑いを向けながらそう話す。
 ――仕方がない?…仕方が?…何?…
 言葉の意味を理解することすらできなかった。目の前で突然起こった出来事が、全て嘘であるかのように感じる。まるで実感がない。
「大丈夫だよ。お嬢ちゃんもすぐ楽にしてあげるから。優しくな…」
 男たちの手足や身体が絡みついてくる。
 私はただ欲望のままに動かされる玩具になっていた。そう。まさに、小さな男の子たちが、お気に入りの玩具を我先にと奪い合うような。そんな光景…
 理性も感情も次第に薄れ、私は既に人形になってしまっていた。
 人間のあくまで本能的な行動。防衛本能。逃避。
 私は自分の意識を、肉体から逃がしてしまっていたのだろう。
 そこでは痛みも苦しみも、恥じらいも屈辱も、一切感じることはなかった。
 飽きるまで肉体を弄ばれる。そして飽きたら…
 恐怖心はなかった。これが運命だと言うのなら、「はいそうですか」と受け入れるのが正しいのか。
 私はもう考えることすらできなくなっていた。
 ただこの身を捧げ、ただその時が終わるのを待ちながらこの残酷な運命を受け入れる。
 それが一番楽であるようにどこかで感じていたのだろう。

 私は姉の隣に、血まみれにされて転がされた。
 ――もう、終わったのかな…
 男たちはそれぞれが十分に果てた後は、何食わぬ顔で平然としていた。
 感想や興奮を口々に伝えたり、今後のことを話したりしていたように思う。
 それは本当に日常の何気ない光景のように見えた。
 私はその言葉の数々を、ただただ無感情に耳から脳へと伝達していた。

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 姉が死んで、半月が経った。
 あの時、あれほどまでに私の頬を濡らした涙も、もう枯れ果ててしまった。
 女医として多くの患者から信頼されていた。研究熱心でもあった。私のたった一人の姉。
 いろいろな話をした。相談をした。励ましてくれた。力になってくれた。
 もうここに彼女の姿はない。
 姉がいなくなってからの生活は、私にとってはまるで太陽を失った闇の世界を生きるようなものだった。
 だからこそ、かつて姉の書斎だったこの部屋に、私は彼女の姿を求めるようになったのだろう。
 机上に無雑作に置かれた数冊の医学書に、ふと目を落とす。
 この部屋にある多くの医学書を通すことで、私はその先に姉の面影を感じることができた。それが、私に残された彼女との唯一のコミュニケーション手段だった。

 ――私も将来は姉さんと同じ医師になりたいな。
 ――優美子はまだ子どもだからね。もう少し大きくなったら一緒に勉強しようね。

 そう話していたのがつい最近のことのように感じる。
 姉のようになりたい。ただそれだけが私の生き甲斐だった。私は姉の後姿に惚れていたのだ。
 パラパラとページをめくる。
 私はそれを通じて、彼女と確かに会話をすることができた。彼女からのメッセージを受け取ることができた。
 何度も目を通した書物の数々。それを通じて学んだことも本当にたくさんあった。
 ――いつから変わってしまったんだろう。
 姉がこの世を去ってから、私はそれまで以上に医学書を読み漁り、独学で研究するようになった。
 それは、姉がいた頃の好奇心からの学習とは大きくかけ離れたものとなった。
 強い義務感、使命感。それを支えていたのは…憎悪と、呪心。
 私はあの日を境に、姉のような立派な医師になりたいという夢を捨てた。それと同時に私は、別の大きな目標をもてたようにも感じていた。
 あの男たちのことを考える度に吐き気を催した。
 性欲に囚われ、欲望のままに、女をまるで自分の快楽のための道具のようにする。
 ――男なんて…皆、汚らわしい屑だ。
 そう思い始めた頃には、きっともう私の中の何かが完全に壊れていたのだろう。
 でも、そんな思いから熱心に始めた研究に後悔の念などは微塵もなかった。
 これが姉の仇を取ることに近付く手段であると考えるほど、私はますます研究に没頭できた。
 彼女が医学書を通じて、私に語りかけてくる。研究は私にとって彼女との会話そのものだった。

 ――大丈夫だからね、姉さん。絶対あいつらを…壊してみせるから…

 無意識に口元に笑みが浮かぶ。
 姉と私との共同研究。――人体の壊し方。
 その成果を試す時が近いと思えば思うほど、私の胸は高鳴った。

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 とうに夕暮れを過ぎ、暗闇が辺り全体を覆っている。
 所々に街灯の灯ったひと気のない公園を、僕はのんびりと歩いていた。
 時間が無制限にある僕にとって、こんな時間帯にこういう場所を当てもなくふらふらと歩くことは決して珍しいことではない。
 何かを期待しているわけでもない。目的があるわけでもない。ニートにはそれだけ時間が無限にあるということだ。今日はたまたま気が向いてここに来ただけ。それ以外の理由はなかった。
 だからこそ、僕がその光景を目の当たりにしたのは、本当に偶然のことだった。
 耳を劈くような怒声。僕は本能的に身の危険を感じ、無意識に茂みに身を隠した。
「まさかまた会うことになるなんてな。今日も楽しませてくれるんだろ。」
 漆黒の公園に飛び交う言葉はさっきから穏やかでないものばかりだ。厄介なことに巻き込まれはしないかと保身を考えたのは、僕にとって本当にごく自然なことだったと思う。
 ――このまま横を通り過ぎて、万が一矛先がこちらに向かないとも限らない。絶対に関わりたくない。
 そんな思いでしばし草むらにじっと身を潜める。しかしそれでも、今そこで行われていることに僕が興味を示さなかったと言えば嘘になる。
 僕は好奇心から、じっと目を凝らしてその様子を傍観することにした。

 チンピラ風の男が三人。絡んでいるのは紛れもない、女の子一人だった。高校生くらいだろうか。
 背中にかかる美しい黒髪に、均整のとれたプロポーション。
 不謹慎にも、男たちが欲情している様子は不自然でなく、あるいはそれが当然であるとも思わせるほど、彼女のそれは際立ち、あまりにも魅力的だった。
 当然のことながら、僕とその女の子の間には接点は全くない。関わりもなければ義理もない。
 つまり、僕が彼女をここで助けに入らないという選択肢は、別段僕に罪悪感を与えるものではなかったのだ。
「お兄さんたちをわざわざ呼び出すなんて気が利いてるじゃねえか。今日は優しくしてやるからな。」
 三人の中でも一際大柄な、サングラスをかけた男がねちっこい口調で迫る。相手の女の子と比べてみても頭一個分は違うのではないかと思うほどの対格差だ。つられるように、他の二人も口を開く。
「俺たちの感触が病みつきになっちまったかな。んじゃまたお話しよっか。」
「言葉じゃなくって身体を使った会話ってやつな。難しいかな。」
 僕は不謹慎にも内心興奮していた。
 ――今、ここで男たちに跳びかかり、あっと言う間にやつらを片付けてしまう。そして感謝した彼女は僕を尊敬の眼差しで見るようになるのだ。――そして彼女と親密になり…やがて…
 妄想にしばし浸る。他人事というのはまさにこういうことを言うのだろう。現に僕には、この日常ではなかなかお目にかかれない状況に幾ばくかの興奮さえ覚えていた。あわよくばここで乱れた制服なんかから「イイモノ」が見られるかもしれないなどと、うっすらと期待すらしていた。
 チンピラ風の男たちは彼女にじわじわと迫り、その逃げ道を塞ぐ。
 僕にはやはりそこへ飛び込んでいく勇気はまるでなかった。それどころか、男たちの様子からそれが冗談半分などではないことが徐々に分かっていくにつれて、僕の足はさらにガクガクと震えが止まらず、身体は硬直して身動き一つ取れなくなっていくのだ。
 ――僕には何もできない。何もできないんだ。
 自分に言い聞かせる。たまたまここを通りかかり、たまたまこの光景を目にした。ただそれだけ。いや、場合によってはこんなこと見なかったことにしてもいい。
 ――そうだよ。僕は何も見てない。聞いてない。
 そう思いながら僕はじっと、この光景の一部始終をしっかりと目に焼き付けようと思った。

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スランプ気味だったのですが、また落ち着いてコツコツ書いています。
ちょっとリラックスして書いていこうかな、と思っています。

前作のあとがきで触れました、現在執筆中のもの。
すみませんが、まだ少し時間がかかりそうなので、先に出来上がっていた方の作品をUPさせていただきました。
分かる人にはすぐに分かったかと思います。
この作品は、星新一著『包囲』(「ボッコちゃん」収録)へのオマージュとして執筆したものです。
彼の語り口調やアイデアが大好きです。
そのせいか今回は、作品の文章自体にもかなり影響を受けているかと。

毎度たくさんの拍手をいただき、ありがとうございます。
見てくださる方々に励まされながら、何とかこうやって作品を書くことができています。
本当にありがとうございます。

今後とも、応援よろしくお願いいたします。
また、ご意見やご感想などもお気軽にコメント欄に下さると嬉しいです。

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 夜の闇が辺りを漆黒に染め上げていった。
 僕は股間を真っ赤に腫らしながら、ふらふらと駅へと向かっていた。
 ――今日だけでどれほど股間を蹴られたことだろう。どうしてこんな目に遭うのだろう…
 考えれば考えるほど分からなくなっていった。
 途中で躓き、手帳が胸ポケットから落ちる。開いたページには名前と住所が所狭しと並んでいた。
 もちろんその名前と住所は一ページ分だけに留まるものではなかったのだが。
 しかしそれでも、結局僕の股間を蹴るよう依頼した人物が一体誰なのか、未だに知ることはできなかった。
 脱力し、家に帰る気力すらも失いそうになる自分に鞭打って改札口を潜る。
 ――明日は仕事に行こう。今日あったことは全て幻で、明日になれば全てが元通りになる。そうだよ。今日は何かが狂っていた日なんだ。明日になれば、きっと…
 そんな風に自分に無理矢理言い聞かせながら、僕は途方もない手帳の名前と住所の数々に目を落としていた。


 やがて電車がホームに入り、朝と同じように人混みが車内から流れ出てくる。
 疲れきった僕は全員の降車を確認すると、滑るように中へ入った。
 終電の時間が近くなっているせいか、車内は混雑していた。
 車内の光景がいつもと違うことに気付いたのは、電車が走り出してすぐのことだった。
 うかつにも僕は女性専用車両に間違えて乗ってしまっていたのだ。無論、他の乗客は全て女性だった。
 今更になって慌ててみてももう遅い。
 僕は自分の単純なミスを情けなく思いながら、次の駅で一旦降りようと考えていた。
 女性たちの中に紛れている恥ずかしさから、僕は頭を上げることができなかった。
 その時、ふと異様な視線を感じた。
 ――やっぱり僕が男だから警戒されているのだろうか…。不審者だと思われているのだろうか…。
 恐る恐る顔を上げる。しかしそこにあったのは蔑みでも警戒でもない眼差しだった。例えるなら、腹を空かしたライオンが…檻の中に投げ込まれた一匹の餌を…見るような?…そんな?…
 うかつだった。これほど自分の軽率な行動を後悔し、恨んだことはなかった。
 少し考えれば分かることだったはずなのに。
 警戒が必要だったのは…むしろ僕の方…
 女性たちの視線の全てが僕に向けられていた。…いや…正確には、僕の…股間に…
 ――はは…きっと世の中全ての女性が…僕を…はは…ははははは…

 次の駅に無事辿り着けるのかどうか、僕には分からなかった。



END

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 背中を踏みつけられているためその表情は見られなかったが、かすかな笑い声が僕の耳には届いていた。
 ――きっと惨めな姿の僕を見下ろして、あざ笑っているんだ。
「よかった。これで私も大金持ちだよ。」
 あどけない高い声が耳に入る。僕は苦痛の中、精一杯の力を振り絞って彼女の足の下から這い出すと、感情に身を任せて必死で女に掴みかかった。
「おい! 何だって言うんだよ! 一体僕に何の恨みが!」
 怒声を張り上げる。訳が分からないままこんなことをされるなんて我慢ならなかった。
 しかし女は冷静に僕の首を片手で掴むと、ギリギリと気道を圧迫した。苦しさから手を緩めてしまう。
 さんざん痛めつけられていたこともあってか、僕には既にそれに抗う力は無くなっていた。そのまま地面に仰向けに押し倒され、睾丸を握られる。その行為に寒気を覚え、僕は身動きが取れなくなった。
『あんまり暴れると睾丸潰れちゃうよ?』
 さっきの彼女の言葉が脳裏に蘇る。
 ――まさか…
「大丈夫だよ。潰したりなんかしないから。」
 心の奥が見透かされたようだった。僕は抵抗を諦めてそのまま身体を止めた。
「一体どうしてこんなことをするのか…でしょ?」
 僕は黙って女の言葉の続きを待つ。
 驚いたことに、女の口から話されたのは先ほどの女と全く同じ内容のものだった。ただ、彼女はそれを自分が実行できないと思ってさっきの女に頼んだのだという。
「でも、あんたの方から来てくれるなんて思わなかった。本当、運がいいよね、私。これで大金が入るよ。」
 嬉しそうにそう言いながら、彼女は僕の睾丸を強く握る。その痛みに僕は再び絶叫した。
「お…教えてくれ。この名前に心当たりは?」
 そう言って僕は胸元の手帳を女に差し出す。そこには彼女の名前と一緒にあと二人の名前が書かれていた。この三人の関連を知りたいと思ったからだ。
「さあ。二人とも知らない人だよ。」
「じゃあ、誰があんたにこんなことを頼んだんだ。」
 彼女はしばらく考え込む。案の定、先ほどの女と同じ理由で彼女は僕にその名前と住所を告げた。僕はすかさずそれを手帳に書き込む。そして驚愕する。
 そう…また全く別々の三人の名前と住所だったのだ…
「あんたにこんなことを頼んだこの三人は誰なんだ? 知り合いなのか?」
「ううん。全然知らない人。」
「じゃあ、この三人は一緒にあんたに頼んできたのか?」
「違うよ。別々に全然違う場所で。」
「それじゃ、知り合い同士ではないんだな?」
「うーん。正確にはどうか分からないけどね。多分知らない人同士なんじゃないかな。」

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 ――さっきの女と全く同じ行動だ…何で…何で…
 女は満足そうな顔つきで僕の瞳を見つめると、僕の胸ぐらを掴んで無理矢理立たせた。
「何でなんだ。これは、どういうことだ!」
 声を荒げる。しかしその声は彼女のさらなる追撃によってかき消された。痛みが再び襲ってくる。
「ぐ…うぅ…」
 抱きつくような体勢を取った彼女の膝が股間に食い込み、僕は呼吸を奪われたような感覚に襲われる。
 表面の痛みが徐々に内部へと伝わり、それが苦しみに変わる。
 例えるなら害虫が内臓を喰らっている感触とでも言えばいいのだろうか。そのじわじわと込み上げてくる苦しみは、まさに生き地獄と呼べるものだった。
「しゃべらないでくれる? ウザイから。」
 彼女はさらに二発、三発と容赦なく僕の股間を膝で蹴り上げる。その度に僕は絶叫し、今にも倒れ込みそうになるのを彼女に再び押さえられてしまうのだった。
「ほら、あんまり暴れると睾丸潰れちゃうよ? ま、それが望みならいいけど…」
 この暑さの中だというのに、僕は彼女のその言葉に背筋から氷が上ってくるような寒気を覚えた。
 ――抵抗はしない…しませんから…
 僕はすっかり弱気になっていた。彼女から与えられる苦しみが、僕から自衛の意志すらも奪っていた。
 ただ、この蹴りの地獄から解放してほしい。それだけを祈っていた。
「や…やめて…や…」
 しかし、彼女の蹴りはその後も幾度となく続いた。僕はそれに抗うこともできず、情けない声をただただ絞り出すことしかできなかった。
 彼女が足を大きく後ろに引いた。

 ――!!――

 一際強烈な一撃が僕の睾丸を襲う。
 僕はさすがに耐えきれず、彼女の力が一瞬緩まった隙にその手を放れ、地面に倒れ込んで悶絶した。
 自然と股間を手で押さえ、内股になってごろごろと転がる。
 そんな僕の背中を、彼女は足でぐいと踏みつけて押さえた。股に手を挟んだまま、動きを止められる。
 当然のことだが、全く知らない他人の家の前でこんな風に無様な姿を晒すなどということは、僕に想像できたはずもない。もちろんこんな経験は生まれて初めてだった。
 僕は混乱し、今にも泣き出しそうになっていた。
 理不尽に与えられた屈辱が僕を追い詰めていた。心底自分がみっともない存在に思えた。
 だからこそ、僕は最後までプライドを保っていたいと強く願ったのだろう。
 この女に対する怒りが後から後から込み上げてくるのが分かった。そして、こんなことを依頼した馬鹿を絶対に突き止めてやるんだという思いもまた、僕の中でさらに大きく膨れ上がっていくのだった。

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